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    マンホール(226):特許江端式の枡蓋

    よく民家やマンションの敷地の端などにこういう蓋がある。

    mh226-3.jpg
    「エバタ インバート」と書かれた鉄かコンクリ製のものだ(ここに掲載したのはコンクリだが、多分鉄製のほうが多少みつかりやすいと思う)。
    これはエバタ株式会社の製品で、おそらくは「エバホール」か「小型エバホール」のための蓋だと思う(先のリンク中の製品紹介PDFを参照のこと)。
    東京あたりならいたるところで見られ(地方の事情は個人的にわからない)、私設汚水枡としてはかなり高いシェアの定番商品なのではないかと思う。なお、インバートとはこのように底面に管がしつらえてある枡を指すらしく、そのことは上述PDFからも伺える。

    ところで、エバタの会社沿革によれば、
    ”昭和44年:コンクリート汚水ます「インバート」製造開始
    昭和58年:組立マンホール「エバホール」製造開始”

    であるという。商品の歴史はそれなりに長いようだ。ということは古い仕様の蓋、なんてものもあるんじゃないですかね。骨董探蓋師としてはやはりそういうことを考えるわけであります。
    で、だいぶ前に見つけた蓋であるがご紹介。

    mh226特許江端式 (1) mh226特許江端式 (2)
    「特許江端式 インバート」の文字。昭和期にはエバタは江端商事株式会社という商号であったから、これは「エバタ インバート」の古いものとみて間違いなさそうだ。「特許」と冠するからには、取得からそう間のない時期の蓋ではなかろうか。
    特許検索では、特開2007-085022など同社出願のマンホール関連特許をいくつか見つけることができた。
    この古蓋に書かれている当時の特許がどんなものかはよくわからないが、旧・江端式をブラッシュアップしたものが現行のそれなのではないかと思われる。
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    マンホール(207):東京都の変わり種制水弁?

    ここのところ町会シリーズばかりだったので、久しぶりに蓋方面での発見報告を。

    昨年末、賃労働の仕事納めのあとに数時間27キロに及ぶ蓋見を行ったが、成果ははかばかしくなく、日も落ちてきたところで地下鉄に乗ろうと荻窪を目指して青梅街道を北上していた。
    すると、「文大杉高前」交差点近くの植え込みに、なにやらあやしいものがある。

    mh207 (3)
    都章は見て取れる。その下の「水」の字もわかる。だが他は砂に埋もれていたりでよくわからない。枠も何か変だ。

    mh207 (2)
    部首のりっとう(刂)らしきものが見えるから、「制」なんだろうか。枠には小石が邪魔だが「閉」の字も見える。

    mh207 (1)
    これがまたわからない。「辛」らしいのが見えるから「瓣」だろうか。

    mh207 (4)
    都章の上には矢印が描いてある。

    mh207 (5)
    「閉」の反対側の砂を払ってみる。案の定「開」のようだ。

    mh207 (6)
    で、全体像。東京都水道のものとしては異質な感じがするが、見たような覚えはある。他の町にあったかな?


    その翌日。他のネタに関係して路上文化遺産DBを参照していたところ、類似の蓋画像がアップされているのに出くわした。これである。

    mh207(7).jpg
    (ライセンス:cc-by-sa-3.0 原著作者:EkikaraManhole)

    こちらは文字が内側外枠共にくっきりとしているが、一方で紋章はもともとなかったようだ。
    見たような覚えがあったのは、これのことだったのだろうか。都内外での目撃情報・使用例等がないか探してみようと思う。

    マンホール(203):香川県高松市の上水道蓋

    下水道蓋に続き、上水道関係の蓋である。香川県の水道蓋は坂出市を紹介済みだが、それともちょっと違う首府・大都会高松のものを堪能されたい。

    mh203 (1) mh203 (2) mh203 (3)
    消火栓蓋からご紹介。カラー2点と無色蓋。前二者は高松の「高」の下に「水」の字をあしらった水道章?が鋳出されているが、後者は市章(市のサイト参照)をベースにしたものであり、根本の割れた矢印のようなものは松葉の図案化であるようだ。よく見ると前二者の水道章にも松葉のモチーフが一応含まれてはいるようにみえる。

    mh203 (4) mh203 (5) mh203 (6) mh203 (7) mh203 (8)
    続いてハンドホール小蓋。順にコメントしてみよう。
    「水」1字のものは汎用品なのだろうか、どこか他所でも見たような気がしなくもない。
    「インサート弁」には文字部分に間仕切りがなくのっぺりとしていて、都内では見ない外観なので面白い。
    「仕切弁S」は、紋章と合わせて5文字分に分割されていて、これはこれで珍しい。
    「S仕切弁 配 150」今風のキャップ式カラー蓋。
    「制水瓣」これは紋章が先に紹介した二つとは違っている。一説によるとこれは二番目くらいに古いものらしい。ネットで見つかる一番古そうな蓋画像(阻水瓣)には、市章そのもの(あるいはよく似たもの)が描いてあるように見える。

    mh203 (9) mh203 (10) 
    続いて他の用途の大ぶりの蓋をご紹介。空気弁2種。黄色と青とで何か違うのかしら。

    mh203 (11) mh203 (12) mh203 (13) mh203 (14)
    仕切弁4種。比較的着色された蓋が目立つように思われた。

    mh203 (15)
    最後に歩道から撮った車道上の蓋。「防火水そう」であるが、黄色枠もないがいいんだろうか。

    高崎市で見つけた水道公共栓

    前回に続き、高崎市の歴史的水道遺産の紹介である。

    そもそも高崎市の水道はいつからあるのか。市のサイトによれば、

    「明治20年頃、高崎町の中心部である本町ほか14か町の有志が相図り、烏川の流水を引入れた長野堰用水を水源とし、分流新井堰より取水して、15か町の町民を給水対象とした小規模の水道を築造した」

    とある。この私営水道が嚆矢であり、これの遺物が路上で見つかったらアカデミックニートのブログなどではなく上毛新聞の記事になるだろうが、さすがに残ってはいないだろう(市の水道記念館には陶管等がある模様)。
    本格的な水道創設工事は、明治33年の市制施行よりあとになる。36年に申請、40年に認可が降りて着工、43年に第1期工区が竣工と相成っている。

    GoogleBooksで「高崎市水道敷設目論見書」なる文献を見る事ができる。
    なぜか頁が逆順にスキャンされていていささか読みにくいのだが、同文献によると、明治30年代の高崎市は戸数6000以上、人口3万台半ばを数えている。
    取水場は里美村(榛名町を経て2006年10月に高崎市に併合)、浄水場は八幡村剣崎(1955年1月に高崎市に併合)に置かれた。給水路はおおまかに要約すると、

    「剣崎から市内相生町まで17インチの給水本管を伸ばし、相生町から飯塚駅(現・信越本線北高崎駅)方面に8インチ管を分岐。本管は本町まで伸びそこで兵営に8インチ管を分岐。本管は14インチとなって九蔵町・連雀町などで分岐、さらに12インチとなって新町で駅方面と南方面に2本の8インチ管となる」

    という塩梅だ。さらに細かな分岐管を含めると総延長は10万尺近くに及んでいる。町名は大して変わっていないはずだから詳しくは高崎市街図を参照されたい。なお兵営というのは昭和6年の地図では高崎城址や今日の官庁街一帯にある。水道敷設当初も多分既にここにあったと思う。

    ところで、「目論見書」には、市街には適宜120個の共用栓を設置した旨の記述がある。
    これがのちの拡張工事でどう増減したかまでは詳らかではない。また、今日では公園等を除けば見られない設備である共用栓がいつまで実用に供されていたのかも定かではないが、昭和9年の「高崎市勢要覧」(近デジ)には1500戸あまりが公共栓(共用栓と同じとみてよいだろう)を使用していた旨があるので、昭和に入ってからも使われていたのは確実だ。なお市サイトの年表によれば1952年(昭和27年)にメーター計量制に移行しているので、この頃が世帯個別への給水という今日あたりまえのスタイルに切り替わった時期ではないかとも想像できる。

       ※   ※   ※   

    さて、本題。先日の訪問で、旧中山道沿いの住宅地にこの公共栓と思しきものが残っていたのを見つけた。

    高崎市公共栓 (1)
    柱の側面に「公共栓」とある。擬宝珠のような頭がいい。途中上方にあるのは蛇口の痕跡だろうか?

    高崎市公共栓 (2) 高崎市公共栓 (3)
    四つ辻のところに、土地を三角形に切って流し場がしつらえてあるようだ。東京にもまだ残っている井戸端のポンプを思わせる、生活感の残る佇まいである。

    高崎市公共栓 (4)
    関連?して、近所にはこういうものを掲げた建物もあった。

    この公共栓はストリートビューでも見る事ができる。

    大きな地図で見る

       ※   ※   ※   

    なお高崎観光協会のブログに、市内本町の老舗茶店「水村園」に現存する創設当初の水栓柱の画像が掲載されている。文字が「水栓柱」となっているだけで、全体の作りは公共栓とほぼ同じであるように思われる。となると、中山道の公共栓もまた創設期のものである可能性がある。少なくとも、創設期の様式を伝える時期のものであるとはいえそうだ。

    マンホール(194):幻の水栓を高崎市で発見

    以前、東大赤門裏にある奇妙な「水栓」という蓋の紹介記事を書いた事がある。

    mh161-3.jpg
    これである。

    mh161-10.jpg
    『大東京市民の常識』(大東京社、大正10)という文献にこれらしい蓋を写した挿絵があることなどを先の記事では触れた。
    以上おさらい。

        ※   ※   ※    

    この週末、ちょっとグンマー国探検に赴いた。目的はこれと言ってなく、高崎の古い蓋でも見つかればいいなと軽い気持ちでの訪問だった。

    旧街道沿いなどに色々と古いものがあったりはしたのだが、最大の収穫はこれである。
    まずはツイートの引用。




    mh194高崎市水栓 (1)
    ちょっとボケてしまった。私道というか庭先に近いようなところであったから仕方がない。そんなところでゆっくりピントなど合わせていようものなら、変態盗撮魔と勘違いされて高崎署内のひととなってしまいます。

    mh194高崎市水栓 (2)
    小さいが鮮明な画像も載せておく。 
    さて、どうだろうこの蓋。赤門の蓋、というか古文書の挿絵にそっくりだ(特にレンチが五角形であることがはっきりわかるのが良い)。紋章こそ高崎市水道のそれになってはいるが、様式としてはそのまんまだ。

    mh194高崎市水栓 (3)
    穴の部分の拡大。赤門のとは違い、これははっきりと雄型だ。東京市のと比べたとき最大の差異である。
    開閉器具と本体、どちらかが雄型でどちらかが雌型であれば構わないのだから、機能的には大した差でないといえば言えるのだが。
    むしろ土砂を被った時のことを考えると、高崎式のほうがまだ死ににくいと言えそうだ。
    まあ東京市式のほうが破損して去勢されただけなのかもしれないけれど。

    追記
    さらに言えば、今回こちらの「蓋」を見て気づいたことなのだが、これはどうやら「蓋」ではなく「むき出しのレンチとその在処を示す杭の頭」に過ぎない可能性が出てきた。画像の通り、どうも紋章&文字の鋳出された円盤部分が開閉する仕組みにはなっていないように思われる。
    プロフィール

    rzeka

    Author:rzeka
    マンホール等探索者。

    因果なことにアカデミックニート=人文系大学院生でもある。
    rzekaはポーランド語で川の意。因みに発音はIPAだと[ˈʒɛka]になる。「じぇか」に近い音。



    当ブログについて:リンクはご自由に。拙文がリンクされるようなサイトの話題には多分関心があるので、よければリンク張ったら呼んで下さい。画像の直リンクはfc2の環境上望ましくない(ちゃんと表示できないケースが多い)ようですので、あまりおすすめしません。なるべく記事ごとかブログトップ、カテゴリトップへのリンクを推奨します。但し、文章・画像その他すべての著作権は当方に帰属します。 ©rzeka

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