暗渠(7):音羽川(水窪川)下流域を歩いてみた
まる一年以上書いていなかった暗渠記事である! (5)や(6)はどこ行ったんだと思われるかもしれないが、これはファイルの管理上仕方ないのだ。
これほどご無沙汰したのは関心がマンホールに移ったことが原因の一つである。しかし、マンホールを探して歩く過程ではよく暗渠を探索する機会もあり、決して暗渠を歩くのをやめたわけではないのである。
先日も宇田川などを歩いてきたのだが、特に面白いものがなかったので写真は没フォルダ行きにしたのだった(そもそも私が面白いと思う暗渠は得てして民家の裏庭も同然の込み入った場所であって、プライバシー上写真を撮ってきてウェブに大公開!とはしづらいのである)。
さて、今回行ってきたのは音羽川というところである。音羽川という名称は「川の地図辞典 江戸・東京/23区編
」によるものだが、「東京ぶらり暗渠探検 消えた川をたどる!
」では前者では別名としている水窪川の名称を採用している。
上流の方はよく見ていないので、下流から紹介。

江戸川橋の脇から神田川を見下ろすと、このように雨水吐が開いているのが目に入る。これが、音羽川および並走する弦巻川の河口にあたる(下水道としては、坂下幹線の雨水管である)。
河口の北側、435号線の東に並走する道(小日向2-19と音羽1-1…の境界線)があるが、これが音羽川の流路である。北上すると、右手に石積みされた崖がある。崖の上の街は文京区小日向だ。石垣からはところどころ排水管が突き出ており、小日向の雨水と思しき湧水が今も滲みでている。

足元に現行のマンホールがあった。キャップを見ると、ここの管渠は1932年設置のものらしい。恐らくは、これが暗渠化の年代であろう。鉄縁付きなど、古いマンホールも集まっている。

もうしばらく行くと右手に今宮神社という神社が現れる。正面から見てみよう。

手前にあるのは鉄縁付きの旧マンホール。マンホールと石段の間にいくつかの細長い岩が横たわっているが、これはどうも石橋の痕跡らしい。同じところを今度は横から(すなわち流路側から)見てみよう。

ここからさらに北上。ビルや住宅の隙間に暗渠は細く続く。

しかし、神社から100メートルほどで行き止まりになる。行き止まりから100メートル強の区間は、暗渠は途切れてしまっている。どん詰まりは民家の軒先なので写真は撮らなかったし無理に踏み込みもしなかったが、鉄縁付きの蓋が半ば埋もれて残っているようだった(下水道台帳によれば、90×120の楕円形人孔があるそうだ)。
因みに、暗渠を分断しているものの一つは、丘の上の鳩山会館へと続くアプローチである。庶民生活をズタズタにするだけでは飽きたらず、暗渠まで分断するのか、かの鳩山は! (←いきなり社会派)
この分断部を超えると、しばらくはまた崖下の道がだらだらと続く。筑波大付属中高やお茶の水女子大学の麓を巻いて流れ、不忍通りで護国寺・豊島岡御陵の真正面に出くわす。筑波大附のあたりが一番高低差が大きいと思われる。崖を登る階段は、レンズの視野に収まりきらない。

とりあえず今回はここでおしまい。
これほどご無沙汰したのは関心がマンホールに移ったことが原因の一つである。しかし、マンホールを探して歩く過程ではよく暗渠を探索する機会もあり、決して暗渠を歩くのをやめたわけではないのである。
先日も宇田川などを歩いてきたのだが、特に面白いものがなかったので写真は没フォルダ行きにしたのだった(そもそも私が面白いと思う暗渠は得てして民家の裏庭も同然の込み入った場所であって、プライバシー上写真を撮ってきてウェブに大公開!とはしづらいのである)。
さて、今回行ってきたのは音羽川というところである。音羽川という名称は「川の地図辞典 江戸・東京/23区編
上流の方はよく見ていないので、下流から紹介。


江戸川橋の脇から神田川を見下ろすと、このように雨水吐が開いているのが目に入る。これが、音羽川および並走する弦巻川の河口にあたる(下水道としては、坂下幹線の雨水管である)。
河口の北側、435号線の東に並走する道(小日向2-19と音羽1-1…の境界線)があるが、これが音羽川の流路である。北上すると、右手に石積みされた崖がある。崖の上の街は文京区小日向だ。石垣からはところどころ排水管が突き出ており、小日向の雨水と思しき湧水が今も滲みでている。

足元に現行のマンホールがあった。キャップを見ると、ここの管渠は1932年設置のものらしい。恐らくは、これが暗渠化の年代であろう。鉄縁付きなど、古いマンホールも集まっている。


もうしばらく行くと右手に今宮神社という神社が現れる。正面から見てみよう。

手前にあるのは鉄縁付きの旧マンホール。マンホールと石段の間にいくつかの細長い岩が横たわっているが、これはどうも石橋の痕跡らしい。同じところを今度は横から(すなわち流路側から)見てみよう。

ここからさらに北上。ビルや住宅の隙間に暗渠は細く続く。

しかし、神社から100メートルほどで行き止まりになる。行き止まりから100メートル強の区間は、暗渠は途切れてしまっている。どん詰まりは民家の軒先なので写真は撮らなかったし無理に踏み込みもしなかったが、鉄縁付きの蓋が半ば埋もれて残っているようだった(下水道台帳によれば、90×120の楕円形人孔があるそうだ)。
因みに、暗渠を分断しているものの一つは、丘の上の鳩山会館へと続くアプローチである。庶民生活をズタズタにするだけでは飽きたらず、暗渠まで分断するのか、かの鳩山は! (←いきなり社会派)
この分断部を超えると、しばらくはまた崖下の道がだらだらと続く。筑波大付属中高やお茶の水女子大学の麓を巻いて流れ、不忍通りで護国寺・豊島岡御陵の真正面に出くわす。筑波大附のあたりが一番高低差が大きいと思われる。崖を登る階段は、レンズの視野に収まりきらない。

とりあえず今回はここでおしまい。
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