東大駒場キャンパスから流れる川
東大駒場キャンパスの西端、駒場小学校と接する位置に小路がある。ここに端を発する小さな流れが存在する。
二つの学校の間、細くえぐれた小さな谷状の地形から水は流れ出る。なかなか澄んだ流れである。

流れの傍ら、右岸には古そうなコンクリの柵。そして左岸、すなわち東大の側には「流水自然庭園」なる柱。

流れは坂下門の手前で地中に潜る。そして、門の先の公道上に都下水道局のおなじみの紋章入りの蓋。あまり他所では見ない蓋だ。

この流れはかつて駒場を流れていた空川(そらがわ)の源流の一つ。詳しい流路はおなじみ「川の地図辞典
」参照のこと。今は暗渠となった河川は都内に数多いが、水源が一部なりとも残っているケースはかなり珍しい。いずれ空川跡を歩いてみようと思う。
地図は大体一枚目の画像あたり。
二つの学校の間、細くえぐれた小さな谷状の地形から水は流れ出る。なかなか澄んだ流れである。


流れの傍ら、右岸には古そうなコンクリの柵。そして左岸、すなわち東大の側には「流水自然庭園」なる柱。


流れは坂下門の手前で地中に潜る。そして、門の先の公道上に都下水道局のおなじみの紋章入りの蓋。あまり他所では見ない蓋だ。

この流れはかつて駒場を流れていた空川(そらがわ)の源流の一つ。詳しい流路はおなじみ「川の地図辞典
地図は大体一枚目の画像あたり。
マンホール(17):東大駒場の農学部・一高の蓋
マンホール(1)とマンホール(9)、マンホール(14)で本郷キャンパスの帝大時代の蓋を採りあげたが、今度は駒場キャンパスの番である。
現在駒場キャンパスには主に教養学部が置かれているが、かつては第一高等学校(一高)が、さらに以前には駒場農学校、帝大農学部等があった。
年号を整理してみると、以下のようになる。
明治11(1878)~昭和10(1935) 駒場農学校-東京農林学校-農科大学-帝大農学部
昭和10(1935)~昭和25(1950) 第一高等学校
しからば、一高や農学部時代の蓋が残っていてもおかしくない。それを撮ってきた。
まずは、農学部時代から残る唯一の蓋とされる逸品だ。銀杏並木の東端(つまり生協側)にある。

それから、一高の銘入りの蓋だ。
二枚とも一号館裏にあるなんだかよくわからない出入口のところにある。銀杏並木よりはちょっと建物寄り。
次の2枚はどこにあったかちょっと忘れた。確か、左の蓋が1号館と7号館の間くらい、右の蓋が6号館と13号館の間くらいにあった。やはり、銀杏並木の上にある。

上段右と下段左の蓋とほぼ同一フォーマットのものが、本郷に帝大の蓋として存在する。そのことはマンホール(1)とマンホール(9)で記したとおり。
上段左の蓋と似たものも本郷にはあるが、+模様の地紋が本郷のにはない。もしかするとかつての帝大本郷キャンパスにも+地紋入りの蓋があったのかもしれない―いや、探せば今でもあるかもしれない。
ここに載せた全ての蓋は銀杏並木沿いにある。ほかの場所にあまり残っていない理由としては、
①並木には車が普段入ってこないこと(マンホールは、車が入ってこない場所ならば多少磨滅しても問題ない。マンホールが交換されるのは、得てしてスリップの危険を避けるためである)
②ほかの場所と違い並木付近は建物が建て替わったりしていないので、管の位置等が古くから変わっていない。従ってマンホールの位置もそのままである。
等が考えられる。
現図書館と博物館の間の道にも一高下水の蓋があるが、並木以外の蓋はそれくらいしか見つけていない。
そういえば、昭和10年に駒場に来る前は、一高は本郷・弥生の現在農学部のある場所にあったのだった。
ならば、現農学部構内をうろつけば一高の蓋が見つかることもありうる理屈だ。駒場に農学部の蓋があったように。今度見て来よう。
現在駒場キャンパスには主に教養学部が置かれているが、かつては第一高等学校(一高)が、さらに以前には駒場農学校、帝大農学部等があった。
年号を整理してみると、以下のようになる。
明治11(1878)~昭和10(1935) 駒場農学校-東京農林学校-農科大学-帝大農学部
昭和10(1935)~昭和25(1950) 第一高等学校
しからば、一高や農学部時代の蓋が残っていてもおかしくない。それを撮ってきた。
まずは、農学部時代から残る唯一の蓋とされる逸品だ。銀杏並木の東端(つまり生協側)にある。

それから、一高の銘入りの蓋だ。
二枚とも一号館裏にあるなんだかよくわからない出入口のところにある。銀杏並木よりはちょっと建物寄り。


次の2枚はどこにあったかちょっと忘れた。確か、左の蓋が1号館と7号館の間くらい、右の蓋が6号館と13号館の間くらいにあった。やはり、銀杏並木の上にある。


上段右と下段左の蓋とほぼ同一フォーマットのものが、本郷に帝大の蓋として存在する。そのことはマンホール(1)とマンホール(9)で記したとおり。
上段左の蓋と似たものも本郷にはあるが、+模様の地紋が本郷のにはない。もしかするとかつての帝大本郷キャンパスにも+地紋入りの蓋があったのかもしれない―いや、探せば今でもあるかもしれない。
ここに載せた全ての蓋は銀杏並木沿いにある。ほかの場所にあまり残っていない理由としては、
①並木には車が普段入ってこないこと(マンホールは、車が入ってこない場所ならば多少磨滅しても問題ない。マンホールが交換されるのは、得てしてスリップの危険を避けるためである)
②ほかの場所と違い並木付近は建物が建て替わったりしていないので、管の位置等が古くから変わっていない。従ってマンホールの位置もそのままである。
等が考えられる。
現図書館と博物館の間の道にも一高下水の蓋があるが、並木以外の蓋はそれくらいしか見つけていない。
そういえば、昭和10年に駒場に来る前は、一高は本郷・弥生の現在農学部のある場所にあったのだった。
ならば、現農学部構内をうろつけば一高の蓋が見つかることもありうる理屈だ。駒場に農学部の蓋があったように。今度見て来よう。
三鷹陸橋 -太宰の所縁-
6月頃散歩のとき撮った写真が出てきたので記録を書く。
寝苦しくて4時台に目が覚めてしまい、なんとなく自転車で出た。
この時間帯だと人も車も少なくて、狭く混雑した街中の道を快適に走れて散歩向きなのだ。
三鷹市を南北に抜けて調布市に侵入後、引き返して三鷹駅の方角へ。
三鷹駅の西に、太宰治ゆかりの陸橋があるのは知っていたが、それまで訪れたことはなかった。
ふとその存在を思い出したのでそこに向かうことにした。
いわゆる三鷹陸橋である。昭和4年に完成したとか。
結構長い。登って向こう側をみると、製図の教科書のような構図が眼前に現れてくる。

見下ろすと、6時台の中央線が目下を行き来する。

案内板によると、梁などには古いレール材が再利用されているとのこと。よくよく見てみれば、確かにレールの形をしているし、1911等と年号らしき数字などもみえる。

寝苦しくて4時台に目が覚めてしまい、なんとなく自転車で出た。
この時間帯だと人も車も少なくて、狭く混雑した街中の道を快適に走れて散歩向きなのだ。
三鷹市を南北に抜けて調布市に侵入後、引き返して三鷹駅の方角へ。
三鷹駅の西に、太宰治ゆかりの陸橋があるのは知っていたが、それまで訪れたことはなかった。
ふとその存在を思い出したのでそこに向かうことにした。
いわゆる三鷹陸橋である。昭和4年に完成したとか。
結構長い。登って向こう側をみると、製図の教科書のような構図が眼前に現れてくる。

見下ろすと、6時台の中央線が目下を行き来する。


案内板によると、梁などには古いレール材が再利用されているとのこと。よくよく見てみれば、確かにレールの形をしているし、1911等と年号らしき数字などもみえる。
