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マンホール(55):荒玉水道町村組合の蓋

荒玉水道町村組合は、豊多摩郡の5町(中野、野方、和田堀、杉並、落合)と北豊島郡の8町(板橋、瀧野川、王子、岩淵、長崎、高田、巣鴨、西巣鴨)の合わせて13町によって大正14(1925)年に設立された。
この地域の水道敷設計画は大正の割と早い頃からあったらしいが、その実現に弾みをつけたのが1923年の関東大震災であった。東京市内からの移住者の激増で、上水の需要がより高まったのである。

水源は多摩川。現世田谷区の砧村に設置した浄水場から北東に伸びた管で導水し、野方と大谷口に設けられた給水場から水を供給した。都内有数の直線道路として知られる荒玉水道は、この導水管の上を走るものである(ゆえに今も通行車には重量制限がある)。

1928年に給水が開始され、1934年に拡大した東京市に13町が吸収されたことから組合も東京市水道局に併合された。
給水範囲は現在の区分でいうと中野区全域(中野、野方)、杉並区東半分(和田堀、杉並)、新宿区北西部(落合)、豊島区全域(長崎、高田、巣鴨、西巣鴨)、北区全域(瀧野川、王子、岩淵)、板橋区南東部(板橋)にまたがる。
林丈二「マンホールのふた」やその他の報告を見る限り、荒玉水道の蓋の分布は豊島区・北区あたりに集中しているように思われる。
中野・杉並あたりは、東京市水道局に併合される前に本格的に施工されていなかったのかもしれない。1934年時点での都市化の状況を考えると大いにありうることである。




解説はこれくらいにして本題に入る。先日、駒込から西ヶ原まで本郷通りを散策していたときに見つけた二つの蓋である。

mh55-1.jpg
これは、本郷通りの豊島区駒込2丁目の路上で見つけたもの。正確な場所は失念したが、駒込駅から少し北上したところの歩道の端にあった。右書きで「栓止水」とある。紋章は次に紹介するものより摩滅していてわかりにくい。

mh55-2.jpg  mh55-3.jpg  mh55-4.jpg
こちらは、北区西ヶ原1丁目の路上で見つけた。赤いのぼりの立っている祠の前にあった。文字は殆んど読み取れないが、紋章は若干見やすい。
2枚目がその拡大写真である。3枚目は角度を変えて引きで撮ったもの。

こうした水止栓の写真は「マンホールのふた」には掲載されていない。同書に掲載の6枚組みの蓋など、大物も現存するなら探しだしたいものである。

   ※   ※   ※   

その後、荒玉水道の小蓋は杉並・中野方面で多数見つかっている。詳細については路上文化遺産DBに譲るが、いくつかをここにも追加しよう。

mh55-5荒玉水道止水栓阿佐ヶ谷
阿佐ヶ谷北の住宅街にて。
  
mh55-6荒玉水道止水栓青梅街道
青梅街道上にて。
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【概説】東京市郊外の廃止町村の上水道事業

現在の23区の領域は昭和7年10月のの東京市拡大によって概ね定まった。
このとき新たに東京市に加わった荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の五郡に属する82町村の中には、大正期から自前の水道事業を持っているところがあった。列挙すれば以下の通りである。これらは昭和7年に東京市の水道事業に吸収合併された。
渋谷町
目黒町
・淀橋町
千駄ヶ谷町
大久保町
・戸塚町
代々幡町
・井荻町

また、単独の町ではなく複数の町の寄り合いで運営されたものに以下の二つがある。これらも昭和7年に東京市に吸収合併。
江戸川上水町村組合(今の荒川・足立・墨田・江東区などのそれぞれ一部にあたる12ほどの町によって運営)
荒玉水道町村組合(今の杉並・中野・板橋・北区などのそれぞれ一部にあたる13ほどの町で運営)

加えて、民間企業が公共水道のない地域で営業していたものが以下の三つほどある。これらが東京市に吸収されたのは遅く、昭和10年から20年。
玉川水道株式会社(今の品川・大田・世田谷区にまたがる地域で営業)
・矢口水道株式会社(荏原郡矢口町のみで営業。この会社については鹿島建設が関係していたようで、同社ウェブサイトの「鹿島の軌跡」第28回に詳しい解説がある)
・日本水道株式会社(世田谷区の駒沢あたりで営業)


これらの水道事業者のマンホールは、東京市-東京都に吸収後も使用され続け、それは林丈二「マンホールのふた」に詳しい。
但し、同書掲載の蓋は刊行から四半世紀を経た今多くが現存しないものと思われる。これら廃止13事業者の蓋の現在をいずれまとめ上げたいと思っている。
というわけで、とりあえずは荒玉水道の蓋を見つけてきたので次の記事にアップしたい。

マンホール(54):武蔵野市水道部の泥吐仕切弁

そういえば、武蔵野市の上水道といえば泥吐仕切弁の画像もあったのだった。

水道泥吐管
mh54-1_musasino_dorohakikan.jpg

泥吐仕切弁
mh54-2_musasino_dorohakisikiriben.jpg

マンホール(53):武蔵野市水道部の仕切弁

東京都水道局は23区全体と多摩地区の大部分に上水道を供給しており、東京都(本土)で独自の水道を運営しているのは現在5市町村にとどまる。
列挙すると武蔵野市・昭島市・羽村市・奥多摩町・檜原村である。
今回掲載するのは、そのうち武蔵野市水道部設置の仕切弁である。管径が蓋に記載されており、現在までに50,75,100,150,300の5種を確認している。

まずは50,75と小さいものを。武蔵野市の仕切弁には鋳鉄のみのものと彩色のものの二種類がある。
mh53-1_musasino_sikiriben50.jpg  mh53-2_musasino_sikiriben75.jpg 

100(鋳鉄)と150(鋳鉄&彩色)。150のように、他の管径の蓋にも鋳鉄と彩色の二種類が揃っているのだろうか。
mh53-3_musasino_sikiriben100.jpg  mh53-4_musasino_sikiriben150a.jpg  mh53-5_musasino_sikiriben150b.jpg  

今のところ最大径の300(鋳鉄)。
mh53-6_musasino_sikiriben300.jpg

マンホール(52):ようやく見つけた阻水弇

これまでマンホール(6)などで制水弇(せいすいえん:今は普通制水弁と呼ぶ)の蓋を取り上げた。
この制水弇に先立って阻水弇という名称が使われていた(林丈二「マンホールのふた (日本篇)」参照)。
「制水弇」表記の蓋は場所によっては昭和中期まで使われていた可能性があるが、「阻水弇」となると戦前には既に廃れていたと考えられ、いままで見かけたことも無かった(とある愛好家の方のサイトに渋谷区内で撮影された画像が掲載されているが、ウェブ上にある「阻水弇」情報としてはほぼ唯一のものであった)。
探索の結果遂に出くわしたので掲載する。

mh52-1.jpg

摩滅はかなり激しい。予備知識がなければ到底気付かないところだった(なお、上記サイト掲載の渋谷区の蓋はカッターによる傷はあるものの摩滅が少なく好状態である)。
場所は、御茶ノ水駅から神保町へ向かう途中の歩道。明治大校舎に面したところにあった。何度となく歩いた道にあったとは不覚であった。本郷から神保町にかけては古いものも多くマンホロジストには楽しい土地だ。




追記:確認してみたところリンクフリーとあったので、文中のサイトへリンクを張らせていただこう。Oka Laboratory 備忘録:東京市の阻水弇というページである。
プロフィール

rzeka

Author:rzeka
マンホール等探索者。

因果なことにアカデミックニート=人文系大学院生でもある。
rzekaはポーランド語で川の意。因みに発音はIPAだと[ˈʒɛka]になる。「じぇか」に近い音。



当ブログについて:リンクはご自由に。拙文がリンクされるようなサイトの話題には多分関心があるので、よければリンク張ったら呼んで下さい。画像の直リンクはfc2の環境上望ましくない(ちゃんと表示できないケースが多い)ようですので、あまりおすすめしません。なるべく記事ごとかブログトップ、カテゴリトップへのリンクを推奨します。但し、文章・画像その他すべての著作権は当方に帰属します。 ©rzeka

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