マンホール(65):千川上水の蓋
わりと知られた蓋であるが、今回はじめて現物を見てきたので記事にする。
北区界隈にある千川上水の蓋である。
千川上水とは、玉川上水の分水のひとつ。武蔵野市と西東京市の境界上の境橋から分岐して市境を北に流れ、練馬区内で暗渠となる。千川通り(練馬・関町~豊島区・南長崎)の名称はこの上水に沿っていることから。板橋区の大山駅・板橋駅・滝野川界隈を経て、西巣鴨二丁目の現・千川上水公園に至っていた。
1696年に完成され、湯島聖堂・寛永寺・浅草寺・六義園や本郷など市中への給水に使われ、じきに灌漑用に転用された。
明治以降は工業用水にも使われはじめ、また明治13~41年には千川上水会社によって飲料水としての供給事業も行われた。同社解散後は東京府の管轄となり、昭和43年まで大蔵省印刷局滝野川工場や六義園に給水されるなどしていたという。
さて、前置きはもう結構。画像をまとめて掲載。

丸蓋(小)と紋章の拡大。

丸蓋(大)と二枚続きの角蓋。
これらはいずれも滝野川6丁目と7丁目の境の道に4~5枚ほどある。旧中仙道に並走するこの道は、上記の流路の末端に当たるところ。この道の南側から坂が始まっているから尾根筋なんだと思う。以前書いたと思うが、尾根筋に人工の水路を通すのはセオリー通りだ。
林丈二氏の「マンホールのふた
」によれば、この道には千川上水の蓋が12枚ほど残っていたとある。従ってこの四半世紀で半減したことになる。千川上水の蓋は板橋駅付近などにも若干あるそうだ。
……ところで、この蓋の由来は余り明らかではない。普通は銘や紋章から設置者が判るものだが、この蓋に関してはそうはいかない。上に書いた千川上水会社があった時代には、この通りはまだ暗渠化されていなかったと思われるからだ。開渠にマンホールの蓋があるかというと、そりゃないわけだ。であるからして、この蓋を千川上水会社のものと見るのは多分違っている。
いい資料が目下ないのでwikipedia情報になるが、
・1928年(昭和3年) - 滝野川から板橋までが暗渠化される。
との記述がある。
昭和3年といえば、東京市郊外の町が独自の水道を持ち始めた時期に重なるが、今回掲載した蓋はそれら町村の蓋と造り・作風が似通っている。それに実際に見た感想としても、昭和3年前後という時期は劣化具合等からして納得のいく数字である。
その時期上水はすでに東京市管轄であったわけだが、なぜ独自デザインの蓋が用いられたのか?
これについて筆者は、千川上水は印刷局や六義園といった特殊な配水先を鑑みて特別に独立して運用されていたのではないかと想像している。その傍証ともとれる蓋が巣鴨駅付近の横断歩道上に存在する。

これは昭和40年代以降の上水道蓋(消火栓・空気弁等)と同系統のデザインであり、そう古いものではないだろう。推定される設置年代は、だいたい千川上水の現役末期と重なると思う。
設置者は「都北部公園」とある。この名称を含む部署は現在では確認できないが、「東京都東部公園緑地事務所」というところが現在六義園を管理しており、その前身なり関連部署なりではないかと思う。
いずれにせよ、当局が稼働中は千川上水を特別扱いで単独運用していたことは窺われると思う。
もしかすると、古いほうの「千川上水」の蓋も水道局ではなく、当時の六義園または印刷局の管轄部署が設置したものかもしれない。
地図の中心点は、丸蓋(小)のある位置。他の蓋は中心より東、明治通りとぶつかるすぐ手前。
北区界隈にある千川上水の蓋である。
千川上水とは、玉川上水の分水のひとつ。武蔵野市と西東京市の境界上の境橋から分岐して市境を北に流れ、練馬区内で暗渠となる。千川通り(練馬・関町~豊島区・南長崎)の名称はこの上水に沿っていることから。板橋区の大山駅・板橋駅・滝野川界隈を経て、西巣鴨二丁目の現・千川上水公園に至っていた。
1696年に完成され、湯島聖堂・寛永寺・浅草寺・六義園や本郷など市中への給水に使われ、じきに灌漑用に転用された。
明治以降は工業用水にも使われはじめ、また明治13~41年には千川上水会社によって飲料水としての供給事業も行われた。同社解散後は東京府の管轄となり、昭和43年まで大蔵省印刷局滝野川工場や六義園に給水されるなどしていたという。
さて、前置きはもう結構。画像をまとめて掲載。


丸蓋(小)と紋章の拡大。


丸蓋(大)と二枚続きの角蓋。
これらはいずれも滝野川6丁目と7丁目の境の道に4~5枚ほどある。旧中仙道に並走するこの道は、上記の流路の末端に当たるところ。この道の南側から坂が始まっているから尾根筋なんだと思う。以前書いたと思うが、尾根筋に人工の水路を通すのはセオリー通りだ。
林丈二氏の「マンホールのふた
……ところで、この蓋の由来は余り明らかではない。普通は銘や紋章から設置者が判るものだが、この蓋に関してはそうはいかない。上に書いた千川上水会社があった時代には、この通りはまだ暗渠化されていなかったと思われるからだ。開渠にマンホールの蓋があるかというと、そりゃないわけだ。であるからして、この蓋を千川上水会社のものと見るのは多分違っている。
いい資料が目下ないのでwikipedia情報になるが、
・1928年(昭和3年) - 滝野川から板橋までが暗渠化される。
との記述がある。
昭和3年といえば、東京市郊外の町が独自の水道を持ち始めた時期に重なるが、今回掲載した蓋はそれら町村の蓋と造り・作風が似通っている。それに実際に見た感想としても、昭和3年前後という時期は劣化具合等からして納得のいく数字である。
その時期上水はすでに東京市管轄であったわけだが、なぜ独自デザインの蓋が用いられたのか?
これについて筆者は、千川上水は印刷局や六義園といった特殊な配水先を鑑みて特別に独立して運用されていたのではないかと想像している。その傍証ともとれる蓋が巣鴨駅付近の横断歩道上に存在する。


これは昭和40年代以降の上水道蓋(消火栓・空気弁等)と同系統のデザインであり、そう古いものではないだろう。推定される設置年代は、だいたい千川上水の現役末期と重なると思う。
設置者は「都北部公園」とある。この名称を含む部署は現在では確認できないが、「東京都東部公園緑地事務所」というところが現在六義園を管理しており、その前身なり関連部署なりではないかと思う。
いずれにせよ、当局が稼働中は千川上水を特別扱いで単独運用していたことは窺われると思う。
もしかすると、古いほうの「千川上水」の蓋も水道局ではなく、当時の六義園または印刷局の管轄部署が設置したものかもしれない。
地図の中心点は、丸蓋(小)のある位置。他の蓋は中心より東、明治通りとぶつかるすぐ手前。
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