マンホール(95):戦前?の泥吐枡蓋
マンホール(94):大久保町の下水道蓋
あまり資料の調査が行き届いていないのだが、画像フォルダに眠らせておいても仕方ないので記事にしてしまう。
現在の新宿区の一角を占める大久保町の蓋である。
まずは新宿区の成り立ちから説き起こそう。この区の成り立ちは単に本郷区と小石川区が一緒になっただけの文京区などと比べると厄介だ。東京市オリジナル15区に属した部分と郡部だった部分とにまたがっているためだ。
詳細は端折ってごく大雑把に纏めると以下のような流れだ。
明治22(1889)年 近代市町村制度の発足。東京市四谷区・東京市牛込区・淀橋町・大久保村・戸塚村・落合村などが発足。各村は明治末~大正にかけて町制施行。
昭和7(1932)年 淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町が合併し、東京市淀橋区発足。
昭和22(1947)年 四谷区・牛込区・淀橋区が合併して新宿区発足。
決して広くはない新宿区も、こうしてみるとかつてはけっこう細分されていたわけである。
問題の大久保町は、現在の大久保・百人町・歌舞伎町の一部・新宿5~7の一部等に相当する。
新宿7丁目の相当込み入った辺り、銭湯のある付近の路地に7枚ほど残っている。中央の紋章は、「水」を「大」ともう一文字で囲んだ物。もう一文字は、下水蓋の紋章デザインのセオリーに従えば下水の「下」なのだろうが、ちょっと変だ。「工」の字みたく見える。

中には摩滅の激しいものもある。
※ ※ ※
なお、本来町域外の西新宿5丁目に越境した蓋が一枚残っている。ここは本当なら淀橋町であるはずなのだが。

現在の新宿区の一角を占める大久保町の蓋である。
まずは新宿区の成り立ちから説き起こそう。この区の成り立ちは単に本郷区と小石川区が一緒になっただけの文京区などと比べると厄介だ。東京市オリジナル15区に属した部分と郡部だった部分とにまたがっているためだ。
詳細は端折ってごく大雑把に纏めると以下のような流れだ。
明治22(1889)年 近代市町村制度の発足。東京市四谷区・東京市牛込区・淀橋町・大久保村・戸塚村・落合村などが発足。各村は明治末~大正にかけて町制施行。
昭和7(1932)年 淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町が合併し、東京市淀橋区発足。
昭和22(1947)年 四谷区・牛込区・淀橋区が合併して新宿区発足。
決して広くはない新宿区も、こうしてみるとかつてはけっこう細分されていたわけである。
問題の大久保町は、現在の大久保・百人町・歌舞伎町の一部・新宿5~7の一部等に相当する。


新宿7丁目の相当込み入った辺り、銭湯のある付近の路地に7枚ほど残っている。中央の紋章は、「水」を「大」ともう一文字で囲んだ物。もう一文字は、下水蓋の紋章デザインのセオリーに従えば下水の「下」なのだろうが、ちょっと変だ。「工」の字みたく見える。

中には摩滅の激しいものもある。
※ ※ ※
なお、本来町域外の西新宿5丁目に越境した蓋が一枚残っている。ここは本当なら淀橋町であるはずなのだが。



マンホール(93):東京市下水道局の古いコンクリート蓋
牛込で燈孔を見つけた日に付近で見つけたもの。


同心円と放射線を施した造形が特徴。もしかすると、東京市型の鉄蓋から両モチーフを借用したのだろうか。
以前紹介した初代のコンクリート蓋と比べてもそれほど時代は下らないと思う。「マンホールのふた」では、初代の蓋と同じように「よく見かける」との記述だが、現存は少ないと思う。



同心円と放射線を施した造形が特徴。もしかすると、東京市型の鉄蓋から両モチーフを借用したのだろうか。
以前紹介した初代のコンクリート蓋と比べてもそれほど時代は下らないと思う。「マンホールのふた」では、初代の蓋と同じように「よく見かける」との記述だが、現存は少ないと思う。
マンホール(92):東京市の燈孔の蓋
今回は、先日自働洗滌槽を採りあげたときに触れた、燈孔の蓋である。
例によって能書きからはじめよう。
第一の疑問:そもそも燈孔とはなんであるか?
戦前戦後の下水道学書を引いて解説しよう。基本的な用途は「大管渠の彎曲箇所、又は特に距離長大なる部分の中間にして、人孔を必要とせざる程度の場合には燈孔を代用する。」(高橋甚也『下水道』(アルス、1937)というもの。「大管渠」というのはどうやら幹線と解釈してよさそうだ。また「彎曲箇所」とあるが、これは元々河川だった管渠の蛇行箇所であるケースが多いように思う。
第二の疑問:設置数はどのくらいであったのか?
色々資料を探してみた。見つかった最古の資料である1924年「東京市下水道改良實施調査報告書」によれば、大正末期の第三期工事(≒震災復興事業)における設置数はわずか229個。同期工事での自働洗滌槽は2000基以上に及ぶのだから、これは非常に少ない数値である。
また、1938年から戦時期を除き年次刊行されている「下水道統計」という資料によれば、1935年度末における東京市の燈孔は575個。1940年度末には599個、1950年度末には295個になり、1963年度末には174個にまで減っている。
1970年代初頭の巻からは燈孔など付帯設備の項目自体がなくなっているので一概には言えないのだが、とりあえず一斉に廃止されたということはなかったようである。
第三の疑問:いつごろまで設置が行われたのか?
先述の「下水道統計」によると東京都では戦後は減っていく一方で、おそらく昭和10年代を最後に設置されなくなっていたのではないかと思われる。また、「下水道統計」には戦後に下水道を起工した都市の情報も載っているのだが、そうした都市では燈孔の個数は殆んど空欄(―)になっていた。
技術書を参照すると、例えば1953年の杉戸清『下水道学(前篇)』(技報堂)では、燈孔は「その効能も大した事もないので、成るべくならば普通の人孔にした方がよい」とされ、既に主流を外れたものであることが示唆されている。1961年の深谷宗吉『実用下水道』(日本水道協会)では自働洗滌槽ともども最近では用いられないものというあつかいである。そうして1970年代のハンドブック・用語集からは燈孔/ランプホールの名称字体が消えてしまうのである。
【2012/05/22追記】
燈孔設置数のまとめを作成したのでリンクを。GoogleDocsのスプレッドシートにて提供。
⇒ 燈孔設置数
現物の紹介に入る前に、今回も図面をお目にかけよう。東京府の物である。蓋の図面はまた今度探してくる。

※ ※ ※
それでは本題。
初めに紹介するのは、文京区千石にある蓋。この蓋の所在情報は、Twitterで情報交換しているマンホロジストのお一人から頂いた。なんでも下水道局の人の言によれば文京区内にはこれを含めて3枚は燈孔が現存するそうである。

近づいていくと、汚水枡かなにかのような小さな蓋が。蝶番部分も案外目立たず、ぼんやりしているとマンホールマニアでも見逃しかねない。

デザインの基本は人孔の丸蓋と同じ、東京市型のミニチュア。これは白山幹線上にあり、最初に引いた文献でいう「特に距離長大なる部分の中間」の例だと思う。確証はないのだが、この場所は旧用水路か何かを転用したものではないかと思う。幹線の一本南側の道が水路敷になっているのだが、こうした用水は得てして並行して走るものであり、この幹線もまた水路であったと考えるのは無理ではない。なお、この地点の南側、白山通りに掛かる辺りにはGoogle Earthによると谷頭地形がある。
※ ※ ※
二つ目は先日偶然通りかかったら見つけたもの。
牛込柳町の雨水枡を見に行ったあと、早稲田の方に出てみようと思い外苑東通りを北上しかけたところ、拡張工事間近の道路脇に取り残されたような寺の門があった。

その日の私は実に勘が鋭かった。奥の現役の方の門前にある小さな蓋が、ただの汚水枡の類ではないような気がした。大通りに並走するくねった下道であり、暗渠の気配を無意識に感じたのかもしれない。
案の定、近寄ってみるとそれは燈孔だった。

錆はかなり強い。周囲の舗装は割と新しそうに見える。
初めての自力での燈孔発見に勢いづき、私は当然その路地をたどってみることにした。
すると、こんどは「彎曲箇所」のセオリー通りの箇所に2枚の燈孔を発見した。

こちらは縁石つき。東京市の縁石つきは、『マンホールのふた』掲載写真以外では初めて見た。
もう少し北上し弁天町にはいったところで、まさに下水道工事が行われているのに出くわした。もしかするもこれらの燈孔の先は長くないか。工事車両をやり過ごし、早稲田南町近くにもう一枚発見した。

孔が全部ふさがれている。工事現場付近ではたまにこういう処置をされている蓋がある。
この道は下水道台帳によれば弁天町幹線となっている。また、『東京ぶらり暗渠探検 消えた川をたどる!』によれば、ここは神田川の支流蟹川の更に支流で、文献によっては加二川とされている。同じ読みだが、本流と支流を区別すべく表記を変えたんだろうか? 本家と分家で苗字の用字を変えたりするようなものか。
ちなみに外苑東通りは拡張待ち。この暗渠も影響を受けそうだ。

より大きな地図で 弁天町幹線 を表示
※ ※ ※
さらに、千石と同じマンホロジストが発見した代々木の物件も、画像一枚きりではあるがここに載せる。

本体も縁石も、多分東京でいちばん状態の良い部類だと思う。
なお、燈孔記事の続きはこちら→笄川編と白金編
(2012/04/28追記)
例によって能書きからはじめよう。
第一の疑問:そもそも燈孔とはなんであるか?
戦前戦後の下水道学書を引いて解説しよう。基本的な用途は「大管渠の彎曲箇所、又は特に距離長大なる部分の中間にして、人孔を必要とせざる程度の場合には燈孔を代用する。」(高橋甚也『下水道』(アルス、1937)というもの。「大管渠」というのはどうやら幹線と解釈してよさそうだ。また「彎曲箇所」とあるが、これは元々河川だった管渠の蛇行箇所であるケースが多いように思う。
第二の疑問:設置数はどのくらいであったのか?
色々資料を探してみた。見つかった最古の資料である1924年「東京市下水道改良實施調査報告書」によれば、大正末期の第三期工事(≒震災復興事業)における設置数はわずか229個。同期工事での自働洗滌槽は2000基以上に及ぶのだから、これは非常に少ない数値である。
また、1938年から戦時期を除き年次刊行されている「下水道統計」という資料によれば、1935年度末における東京市の燈孔は575個。1940年度末には599個、1950年度末には295個になり、1963年度末には174個にまで減っている。
1970年代初頭の巻からは燈孔など付帯設備の項目自体がなくなっているので一概には言えないのだが、とりあえず一斉に廃止されたということはなかったようである。
第三の疑問:いつごろまで設置が行われたのか?
先述の「下水道統計」によると東京都では戦後は減っていく一方で、おそらく昭和10年代を最後に設置されなくなっていたのではないかと思われる。また、「下水道統計」には戦後に下水道を起工した都市の情報も載っているのだが、そうした都市では燈孔の個数は殆んど空欄(―)になっていた。
技術書を参照すると、例えば1953年の杉戸清『下水道学(前篇)』(技報堂)では、燈孔は「その効能も大した事もないので、成るべくならば普通の人孔にした方がよい」とされ、既に主流を外れたものであることが示唆されている。1961年の深谷宗吉『実用下水道』(日本水道協会)では自働洗滌槽ともども最近では用いられないものというあつかいである。そうして1970年代のハンドブック・用語集からは燈孔/ランプホールの名称字体が消えてしまうのである。
【2012/05/22追記】
燈孔設置数のまとめを作成したのでリンクを。GoogleDocsのスプレッドシートにて提供。
⇒ 燈孔設置数
現物の紹介に入る前に、今回も図面をお目にかけよう。東京府の物である。蓋の図面はまた今度探してくる。

※ ※ ※
それでは本題。
初めに紹介するのは、文京区千石にある蓋。この蓋の所在情報は、Twitterで情報交換しているマンホロジストのお一人から頂いた。なんでも下水道局の人の言によれば文京区内にはこれを含めて3枚は燈孔が現存するそうである。

近づいていくと、汚水枡かなにかのような小さな蓋が。蝶番部分も案外目立たず、ぼんやりしているとマンホールマニアでも見逃しかねない。

デザインの基本は人孔の丸蓋と同じ、東京市型のミニチュア。これは白山幹線上にあり、最初に引いた文献でいう「特に距離長大なる部分の中間」の例だと思う。確証はないのだが、この場所は旧用水路か何かを転用したものではないかと思う。幹線の一本南側の道が水路敷になっているのだが、こうした用水は得てして並行して走るものであり、この幹線もまた水路であったと考えるのは無理ではない。なお、この地点の南側、白山通りに掛かる辺りにはGoogle Earthによると谷頭地形がある。
※ ※ ※
二つ目は先日偶然通りかかったら見つけたもの。
牛込柳町の雨水枡を見に行ったあと、早稲田の方に出てみようと思い外苑東通りを北上しかけたところ、拡張工事間近の道路脇に取り残されたような寺の門があった。

その日の私は実に勘が鋭かった。奥の現役の方の門前にある小さな蓋が、ただの汚水枡の類ではないような気がした。大通りに並走するくねった下道であり、暗渠の気配を無意識に感じたのかもしれない。
案の定、近寄ってみるとそれは燈孔だった。


錆はかなり強い。周囲の舗装は割と新しそうに見える。
初めての自力での燈孔発見に勢いづき、私は当然その路地をたどってみることにした。
すると、こんどは「彎曲箇所」のセオリー通りの箇所に2枚の燈孔を発見した。


こちらは縁石つき。東京市の縁石つきは、『マンホールのふた』掲載写真以外では初めて見た。
もう少し北上し弁天町にはいったところで、まさに下水道工事が行われているのに出くわした。もしかするもこれらの燈孔の先は長くないか。工事車両をやり過ごし、早稲田南町近くにもう一枚発見した。

孔が全部ふさがれている。工事現場付近ではたまにこういう処置をされている蓋がある。
この道は下水道台帳によれば弁天町幹線となっている。また、『東京ぶらり暗渠探検 消えた川をたどる!』によれば、ここは神田川の支流蟹川の更に支流で、文献によっては加二川とされている。同じ読みだが、本流と支流を区別すべく表記を変えたんだろうか? 本家と分家で苗字の用字を変えたりするようなものか。
ちなみに外苑東通りは拡張待ち。この暗渠も影響を受けそうだ。

より大きな地図で 弁天町幹線 を表示
※ ※ ※
さらに、千石と同じマンホロジストが発見した代々木の物件も、画像一枚きりではあるがここに載せる。

本体も縁石も、多分東京でいちばん状態の良い部類だと思う。
なお、燈孔記事の続きはこちら→笄川編と白金編
(2012/04/28追記)