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    マンホール(104):豊多摩郡・代々幡町水道の蓋

    前回の千駄ヶ谷町に続き、渋谷区の旧自治体の蓋を紹介する。とはいっても、今回は下水ではなく上水道のものである。

    代々幡町は、千駄ヶ谷町・渋谷町とともに現在の渋谷区を構成する旧自治体のひとつだ。名前からわかるように、代々木や幡ヶ谷を中心とする、渋谷区北西部を領域とする。京王線や小田急線が通っている辺りだと考えていただければ良い。

    代々幡町水道は昭和6年に着工しその年のうちに給水を開始している。町単独での水道運営は、東京市渋谷区になるまでの一年~一年半ほどということになる。
    マンホールのふた」を見る限り、長いようで短いその一年ほどの間にそれなりの範囲が整備されていたようだ。同書に掲載されている大物の蓋は現存しないようだが、制水エン等の小蓋は数点残っているようだ。

    ネットにおける代々幡町の蓋情報としては、次のふたつのリンクが先駆的だ(というかこれだけだと思う)。
    第一に、Oka Laboratory 備忘録 代々幡町水道の制水エン【1】
    全体に紋章をあしらった、文字のない蝶番付きの蓋。枠の形状等は、荒玉上水や大久保町の制水弁蓋に似ている。笹塚駅近くにあるそうだが、私は未見。
    第二に、Oka Laboratory 備忘録 代々幡町水道の制水エン【2】
    これは駒場東大前から南下し池尻方面に向かう途中にある。代々幡町水道の水源は多摩川・世田谷方面ではないから給水路上というわけでもなく、越境蓋であろう。こちらは見に行った。芸がないが一応自前の写真をば。

    mh104-1代々幡町制水エン  mh104-2代々幡町制水エン_遠景
    それほど古くはなさそうな舗装の中にある。注目すべきなのは、Okaさんのブログの画像とは舗装の様子が変わっている点だ。
    撮影日時は(差し替えがなければ)後発のこちらが後のはずで、四角くくり抜かれた黒い舗装部分はOka氏撮影より最近の工事ということになる。
    問題の骨董蓋のすぐそばまで、掘り返しの魔の手が伸びていたことになる。撤去を免れたようで、目出度いことではないか。


    さて、最後のものは自前で発見したもの。この時見つけたもので、甲州街道沿いの歩道上にあった。駒場のものとおおむね同じ様式であるが、字体など、摩耗だけでは説明のつかない差異もあるようだ。そもそもこの蓋は、作りとしては粗雑な部類に入ると思う。エンの字の字体もおかしいし…(筆者は繁華街によくあるイカみたいな落書きを想起した)。

    mh104-3代々幡町制水エン_初台


    おそらく現在報告されている現存例は以上の3点だけのはずだ。勘だが、上原方面など探せばまだいくつかあるかもしれない。戦前の航空写真などを見る限り、昭和6年の着工当初すでに栄えていたのは甲州街道以南であり、蓋が残っているとしたらその範囲だと思う。

    mh104-4代々幡水道章
    「代々幡町水道小誌」カバーより、水道章。この資料はGoogleブックスにて閲覧できる。
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    マンホール(103):豊多摩郡・千駄ヶ谷町下水道?の蓋

    渋谷区内にある下水の骨董蓋としては、神宮前界隈などに多数現存する東京府のものが代表格で、各町によるものはさほど豊富ではない。そもそも渋谷あたりは、東京市に併合される以前には上水道事業こそ行われていたものの、ちゃんとした下水道は戦後まで造られてこなかったためだ。

    昔の東京の下水道には一口に言っても二通りある。
    上に「ちゃんとした下水道」と書いたが、これすなわち、下水幹線を通じて処理場に送られ、浄化されたうえで川や海に排出される「改良下水道」だ。これは今日の一般的な公共下水道と同じものである。東京市や、千住・王子・巣鴨・大久保等の各町が運営した下水道はこちらである。
    一方、「ちゃんとしていない下水道」は、「在来下水道」という。これは要するに近代以前からあった排水路で、処理施設もなく、早い話が生活排水の垂れ流しである。水洗便所を設置することはできない。要するにドブである。

    東京市に併合された時点で、渋谷区の下水の多くは後者の在来下水にとどまっていた。
    併合前の昭和5年に策定された「東京都市計画郊外下水道」によって、渋谷区内に改良下水道を造る計画は示されていた。だが、渋谷川に並走して下水幹線を造るこの計画は長らく着手されなかった。昭和30年代になって、渋谷川そのものを下水幹線にするよう方針転換がなされたことで、ようやく改良下水道が実現したのであった。

    渋谷区は、渋谷町・千駄ヶ谷町・代々幡町が合併して出来上がった区である。それぞれの町では大正時代から下水道整備に向けた調査が行われ、昭和5年に先述の「東京都市計画郊外下水道」にまとめあげられた。
    肝心の渋谷川傍の下水管線が実現しなかった以上、この郊外下水道計画は不発に終わったと言える。しかし、一部のドブを暗渠化するに際しては、どうやら郊外下水道計画を準用したものらしい。紋章入りの蓋も一部では使用されているのだ。


    正規の下水ではないぶん、いつもより前置きが長くなった。ここに紹介するのは、以前別の記事でも取り上げた千駄ヶ谷町(推定)の下水蓋である。

    mh103-1千駄ヶ谷町遠景
    宅地の脇道に入り、軽く傾斜のついた坂を上がった途中にその蓋はある。

    mh103-2千駄ヶ谷町  mh103-3千駄ヶ谷町紋章部
    「千」の字の上下に見える文字は「土木」だろうか。多分土木課とかそういう名称の部署が管轄していたのではなかろうか。
    この蓋のある場所は、現在の下水道台帳に管渠も蓋も記載がない。私道なのだろうと思われる。「マンホールのふた」によると、蓋の裏には昭和6年の銘が入っているらしい。となれば東京市になる前の製造である。

    なにぶん正規の計画通りの下水ではないことから、この蓋の来歴の特定は困難だ。現存は多分この一枚きりだろう。林丈二氏は3枚見つけていたそうで、「マンホールのふた」刊行時点では道玄坂(但し道玄坂は渋谷町で、越境蓋だったことになる)にもあったそうだ。

    千駄ヶ谷町での在来下水の暗渠化工事は、田原光泰「春の小川はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史」によると昭和3年には始まっているという。もしかするとそうした箇所には、当時この「千」の字入りの蓋が設置されていたのかもしれない。
    プロフィール

    rzeka

    Author:rzeka
    マンホール等探索者。

    因果なことにアカデミックニート=人文系大学院生でもある。
    rzekaはポーランド語で川の意。因みに発音はIPAだと[ˈʒɛka]になる。「じぇか」に近い音。



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