高崎市で見つけた水道公共栓
前回に続き、高崎市の歴史的水道遺産の紹介である。
そもそも高崎市の水道はいつからあるのか。市のサイトによれば、
「明治20年頃、高崎町の中心部である本町ほか14か町の有志が相図り、烏川の流水を引入れた長野堰用水を水源とし、分流新井堰より取水して、15か町の町民を給水対象とした小規模の水道を築造した」
とある。この私営水道が嚆矢であり、これの遺物が路上で見つかったらアカデミックニートのブログなどではなく上毛新聞の記事になるだろうが、さすがに残ってはいないだろう(市の水道記念館には陶管等がある模様)。
本格的な水道創設工事は、明治33年の市制施行よりあとになる。36年に申請、40年に認可が降りて着工、43年に第1期工区が竣工と相成っている。
GoogleBooksで「高崎市水道敷設目論見書」なる文献を見る事ができる。
なぜか頁が逆順にスキャンされていていささか読みにくいのだが、同文献によると、明治30年代の高崎市は戸数6000以上、人口3万台半ばを数えている。
取水場は里美村(榛名町を経て2006年10月に高崎市に併合)、浄水場は八幡村剣崎(1955年1月に高崎市に併合)に置かれた。給水路はおおまかに要約すると、
「剣崎から市内相生町まで17インチの給水本管を伸ばし、相生町から飯塚駅(現・信越本線北高崎駅)方面に8インチ管を分岐。本管は本町まで伸びそこで兵営に8インチ管を分岐。本管は14インチとなって九蔵町・連雀町などで分岐、さらに12インチとなって新町で駅方面と南方面に2本の8インチ管となる」
という塩梅だ。さらに細かな分岐管を含めると総延長は10万尺近くに及んでいる。町名は大して変わっていないはずだから詳しくは高崎市街図を参照されたい。なお兵営というのは昭和6年の地図では高崎城址や今日の官庁街一帯にある。水道敷設当初も多分既にここにあったと思う。
ところで、「目論見書」には、市街には適宜120個の共用栓を設置した旨の記述がある。
これがのちの拡張工事でどう増減したかまでは詳らかではない。また、今日では公園等を除けば見られない設備である共用栓がいつまで実用に供されていたのかも定かではないが、昭和9年の「高崎市勢要覧」(近デジ)には1500戸あまりが公共栓(共用栓と同じとみてよいだろう)を使用していた旨があるので、昭和に入ってからも使われていたのは確実だ。なお市サイトの年表によれば1952年(昭和27年)にメーター計量制に移行しているので、この頃が世帯個別への給水という今日あたりまえのスタイルに切り替わった時期ではないかとも想像できる。
※ ※ ※
さて、本題。先日の訪問で、旧中山道沿いの住宅地にこの公共栓と思しきものが残っていたのを見つけた。

柱の側面に「公共栓」とある。擬宝珠のような頭がいい。途中上方にあるのは蛇口の痕跡だろうか?

四つ辻のところに、土地を三角形に切って流し場がしつらえてあるようだ。東京にもまだ残っている井戸端のポンプを思わせる、生活感の残る佇まいである。

関連?して、近所にはこういうものを掲げた建物もあった。
この公共栓はストリートビューでも見る事ができる。
大きな地図で見る
※ ※ ※
なお高崎観光協会のブログに、市内本町の老舗茶店「水村園」に現存する創設当初の水栓柱の画像が掲載されている。文字が「水栓柱」となっているだけで、全体の作りは公共栓とほぼ同じであるように思われる。となると、中山道の公共栓もまた創設期のものである可能性がある。少なくとも、創設期の様式を伝える時期のものであるとはいえそうだ。
そもそも高崎市の水道はいつからあるのか。市のサイトによれば、
「明治20年頃、高崎町の中心部である本町ほか14か町の有志が相図り、烏川の流水を引入れた長野堰用水を水源とし、分流新井堰より取水して、15か町の町民を給水対象とした小規模の水道を築造した」
とある。この私営水道が嚆矢であり、これの遺物が路上で見つかったらアカデミックニートのブログなどではなく上毛新聞の記事になるだろうが、さすがに残ってはいないだろう(市の水道記念館には陶管等がある模様)。
本格的な水道創設工事は、明治33年の市制施行よりあとになる。36年に申請、40年に認可が降りて着工、43年に第1期工区が竣工と相成っている。
GoogleBooksで「高崎市水道敷設目論見書」なる文献を見る事ができる。
なぜか頁が逆順にスキャンされていていささか読みにくいのだが、同文献によると、明治30年代の高崎市は戸数6000以上、人口3万台半ばを数えている。
取水場は里美村(榛名町を経て2006年10月に高崎市に併合)、浄水場は八幡村剣崎(1955年1月に高崎市に併合)に置かれた。給水路はおおまかに要約すると、
「剣崎から市内相生町まで17インチの給水本管を伸ばし、相生町から飯塚駅(現・信越本線北高崎駅)方面に8インチ管を分岐。本管は本町まで伸びそこで兵営に8インチ管を分岐。本管は14インチとなって九蔵町・連雀町などで分岐、さらに12インチとなって新町で駅方面と南方面に2本の8インチ管となる」
という塩梅だ。さらに細かな分岐管を含めると総延長は10万尺近くに及んでいる。町名は大して変わっていないはずだから詳しくは高崎市街図を参照されたい。なお兵営というのは昭和6年の地図では高崎城址や今日の官庁街一帯にある。水道敷設当初も多分既にここにあったと思う。
ところで、「目論見書」には、市街には適宜120個の共用栓を設置した旨の記述がある。
これがのちの拡張工事でどう増減したかまでは詳らかではない。また、今日では公園等を除けば見られない設備である共用栓がいつまで実用に供されていたのかも定かではないが、昭和9年の「高崎市勢要覧」(近デジ)には1500戸あまりが公共栓(共用栓と同じとみてよいだろう)を使用していた旨があるので、昭和に入ってからも使われていたのは確実だ。なお市サイトの年表によれば1952年(昭和27年)にメーター計量制に移行しているので、この頃が世帯個別への給水という今日あたりまえのスタイルに切り替わった時期ではないかとも想像できる。
※ ※ ※
さて、本題。先日の訪問で、旧中山道沿いの住宅地にこの公共栓と思しきものが残っていたのを見つけた。

柱の側面に「公共栓」とある。擬宝珠のような頭がいい。途中上方にあるのは蛇口の痕跡だろうか?


四つ辻のところに、土地を三角形に切って流し場がしつらえてあるようだ。東京にもまだ残っている井戸端のポンプを思わせる、生活感の残る佇まいである。

関連?して、近所にはこういうものを掲げた建物もあった。
この公共栓はストリートビューでも見る事ができる。
大きな地図で見る
※ ※ ※
なお高崎観光協会のブログに、市内本町の老舗茶店「水村園」に現存する創設当初の水栓柱の画像が掲載されている。文字が「水栓柱」となっているだけで、全体の作りは公共栓とほぼ同じであるように思われる。となると、中山道の公共栓もまた創設期のものである可能性がある。少なくとも、創設期の様式を伝える時期のものであるとはいえそうだ。
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