文京区町会コレクション【06】金富小学校エリアの5町会
【06】金富小学校(春日2-6-15)……5町会
春日二丁目町会、第六天町会、武島町会、水道端町会、西江戸川町会
前回から西へ。
例によって昭和地図と防災地図(リンク先PDF)、さらに序説を貼っておく。
(1)春日二丁目町会

旧町名でいうと春日2丁目は金富町、同心町と大門町西部、水道町北部あたりから成っている。
そのうち大門町部分は表町町会に、水道町部分は前回の道和町会にどうやら属しているらしいので、要するに春日二町会=金富町+同心町と考えて差し支えなさそうだ。
このサイトによれば、春日2-5から20までの1650世帯あまりが範囲だという。春日2は26番地まであるので、除かれた部分が他町会だ。すなわち1~4、21,22,26が道和町会、23~25が表町町会ということであろう。もっとも後述の第六天町会に春日2丁目9〜12番地が含まれる旨の記述もあり、はっきりしない。
ただ、古い地図を見ればわかるように、いまの春日2-9には春日通りと平行するかたちで同心町/第六天町の境界が走っており、いまも町会レベルでは分裂していることは考えられる。
町域は春日通り以南。掲載写真の掲示板は春日通り沿いに立っていた。領域内にはこれといって面白いものはないが、地下鉄丸ノ内線の地上部分が長々と延びている辺りは特徴的かもしれない。また町会の端の方に茗台中学校があるが、ここは当町会ではなく、対岸の文京中央町会などの避難施設に充てられている。バランスを考えながら、小中学校本来の機能ではない避難所を割り振るとなると、こういうことも当然起こるわけである。
ここで念のため付け加えておくが、記事タイトルにあるような「○○小エリア」というのは、防災地図上の割り振りに基づいてのことで校区などとは関係ない。そのへんは序説の参照を乞う。
(2)第六天町会

第六天町は小日向1と春日2にまたがっている。町名はかつて神田上水(巻石通り)に面して第六天神社が建っていたからだという。
前掲サイトによれば小日向1丁目1〜4、春日2丁目9〜12が範囲で、約180世帯。かつて第六天町に属した範囲のうちここに含まれないのは、春日2-8(かつて徳川慶喜邸があり、いまは国際仏教学大学院大学がある)と小日向1-27(丸ノ内線の基地がある)で、ともに一般民家はほぼない。番地でいうと2つ分でも、面積では旧第六天町の半分くらいは占めているだろうか。広い。小日向1-27がこんな広いとは思わなんだ。白山3-7や本郷7-3には負けるけど。
町内の本法寺は夏目漱石ゆかりの寺で、一族の墓所もあるという(漱石の墓自体は雑司ヶ谷にあるようだが)。「坊っちゃん」に、「だから清の墓は小日向の養源寺にある」とあるが、モデルは本法寺じゃないかという話もある。
(3)武島町会

武島町は、現在の水道1・2丁目の中程に横たわっている。いまの文京区水道は、東からみて水道町・江戸川町・水道端一・武島町・西江戸川町・水道端二・小日向水道町(太字以外は部分のみ)にまたがっており、おおむね南北は巻石通りと神田川の間、東西は江戸川橋から安藤坂交差点までである。
なかでも水道端/武島町/西江戸川町のあるあたりは東西に長く伸びる形で三枚におろしてあり、上水にも川にも面していなかった内陸部が武島町である。文京水道郵便局から水道保育園に至る道の南側が町域であると思いねえ。
名前は江戸時代に武島某という家の武家屋敷があったことに因むという。ちょっと古い地図をいろいろ見てみたけれど武島家は見つからなかったが、いつの時代どの辺にあったものだろう?
明治時代には製紙会社が創業し、昭和初めまであったそうだ。ほかには中江兆民の旧居が町内にあったそうである。
写真の掲示板は見るも無残に崩壊している。町内を探せばまともなのもあると信じたい。そう思わないとあまりにみじめじゃないか! なお撮影場所は水道2-5の角、兆民旧居は直ぐ側の2-4の角だという。
(4)水道端町会

水道端町会は、旧水道端一と二の領域だと思われる。すなわち、文京区水道のうち前述三枚おろしの神田上水側と、小日向1の南側(第六天町会を除く)だ。水道の方には印刷製本所が多く(白山小石川方面のそれと違い、こちらは凸版印刷の下請けだろうか?)、小日向のほうは寺だらけだ。水道端の町名は、現在でも区立図書館の名前に残っている。
(5)西江戸川町会

西江戸川町は、前述の三枚おろしの一番南。神田川に面したやはり東西に細長い一画である。水道1・2にまたがっているのも武島町と同じ。
西とつくからには東江戸川町もあるんだろうと考えた方は、ちょっとは町名シーンに詳しい方であろう。しかし当地の東にあるのは無印の「江戸川町」である。江戸川町のほうは後楽2のほうに収まっていて、後楽町会の領土である。
この町は明治期には神田川沿いに植えられた桜並木が名物で、小金井桜と並び称されたという。近隣の印刷製本工場の元締めと思しい凸版印刷の社屋がある町だ。かつては工場があったが、今はトッパンホール等になっており、未だに工場のある小石川の共同印刷とはちがう。
春日二丁目町会、第六天町会、武島町会、水道端町会、西江戸川町会
前回から西へ。
例によって昭和地図と防災地図(リンク先PDF)、さらに序説を貼っておく。
(1)春日二丁目町会


旧町名でいうと春日2丁目は金富町、同心町と大門町西部、水道町北部あたりから成っている。
そのうち大門町部分は表町町会に、水道町部分は前回の道和町会にどうやら属しているらしいので、要するに春日二町会=金富町+同心町と考えて差し支えなさそうだ。
このサイトによれば、春日2-5から20までの1650世帯あまりが範囲だという。春日2は26番地まであるので、除かれた部分が他町会だ。すなわち1~4、21,22,26が道和町会、23~25が表町町会ということであろう。もっとも後述の第六天町会に春日2丁目9〜12番地が含まれる旨の記述もあり、はっきりしない。
ただ、古い地図を見ればわかるように、いまの春日2-9には春日通りと平行するかたちで同心町/第六天町の境界が走っており、いまも町会レベルでは分裂していることは考えられる。
町域は春日通り以南。掲載写真の掲示板は春日通り沿いに立っていた。領域内にはこれといって面白いものはないが、地下鉄丸ノ内線の地上部分が長々と延びている辺りは特徴的かもしれない。また町会の端の方に茗台中学校があるが、ここは当町会ではなく、対岸の文京中央町会などの避難施設に充てられている。バランスを考えながら、小中学校本来の機能ではない避難所を割り振るとなると、こういうことも当然起こるわけである。
ここで念のため付け加えておくが、記事タイトルにあるような「○○小エリア」というのは、防災地図上の割り振りに基づいてのことで校区などとは関係ない。そのへんは序説の参照を乞う。
(2)第六天町会


第六天町は小日向1と春日2にまたがっている。町名はかつて神田上水(巻石通り)に面して第六天神社が建っていたからだという。
前掲サイトによれば小日向1丁目1〜4、春日2丁目9〜12が範囲で、約180世帯。かつて第六天町に属した範囲のうちここに含まれないのは、春日2-8(かつて徳川慶喜邸があり、いまは国際仏教学大学院大学がある)と小日向1-27(丸ノ内線の基地がある)で、ともに一般民家はほぼない。番地でいうと2つ分でも、面積では旧第六天町の半分くらいは占めているだろうか。広い。小日向1-27がこんな広いとは思わなんだ。白山3-7や本郷7-3には負けるけど。
町内の本法寺は夏目漱石ゆかりの寺で、一族の墓所もあるという(漱石の墓自体は雑司ヶ谷にあるようだが)。「坊っちゃん」に、「だから清の墓は小日向の養源寺にある」とあるが、モデルは本法寺じゃないかという話もある。
(3)武島町会


武島町は、現在の水道1・2丁目の中程に横たわっている。いまの文京区水道は、東からみて水道町・江戸川町・水道端一・武島町・西江戸川町・水道端二・小日向水道町(太字以外は部分のみ)にまたがっており、おおむね南北は巻石通りと神田川の間、東西は江戸川橋から安藤坂交差点までである。
なかでも水道端/武島町/西江戸川町のあるあたりは東西に長く伸びる形で三枚におろしてあり、上水にも川にも面していなかった内陸部が武島町である。文京水道郵便局から水道保育園に至る道の南側が町域であると思いねえ。
名前は江戸時代に武島某という家の武家屋敷があったことに因むという。ちょっと古い地図をいろいろ見てみたけれど武島家は見つからなかったが、いつの時代どの辺にあったものだろう?
明治時代には製紙会社が創業し、昭和初めまであったそうだ。ほかには中江兆民の旧居が町内にあったそうである。
写真の掲示板は見るも無残に崩壊している。町内を探せばまともなのもあると信じたい。そう思わないとあまりにみじめじゃないか! なお撮影場所は水道2-5の角、兆民旧居は直ぐ側の2-4の角だという。
(4)水道端町会

水道端町会は、旧水道端一と二の領域だと思われる。すなわち、文京区水道のうち前述三枚おろしの神田上水側と、小日向1の南側(第六天町会を除く)だ。水道の方には印刷製本所が多く(白山小石川方面のそれと違い、こちらは凸版印刷の下請けだろうか?)、小日向のほうは寺だらけだ。水道端の町名は、現在でも区立図書館の名前に残っている。
(5)西江戸川町会


西江戸川町は、前述の三枚おろしの一番南。神田川に面したやはり東西に細長い一画である。水道1・2にまたがっているのも武島町と同じ。
西とつくからには東江戸川町もあるんだろうと考えた方は、ちょっとは町名シーンに詳しい方であろう。しかし当地の東にあるのは無印の「江戸川町」である。江戸川町のほうは後楽2のほうに収まっていて、後楽町会の領土である。
この町は明治期には神田川沿いに植えられた桜並木が名物で、小金井桜と並び称されたという。近隣の印刷製本工場の元締めと思しい凸版印刷の社屋がある町だ。かつては工場があったが、今はトッパンホール等になっており、未だに工場のある小石川の共同印刷とはちがう。
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