文京区町会コレクション【14】窪町小学校エリアの2町会
【14】窪町小学校(大塚3-2-3)……2町会
大塚窪町町会、氷川下町会
町会シリーズの続き。今回は2町会しかないから楽だ。
本題に入る前に、いつもの3点セットを↓に。
・特集の序章
・防災地図 ※リンク先PDF by文京区
・昭和地図 by日文研
(1)大塚窪町町会

大塚窪町は、茗荷谷駅の春日通り挟んで北側、今日の教育の森公園やら筑波大学附属やら窪町小学校があるあたり。現町名では大塚3丁目と小石川5丁目にまたがっている。
この界隈は神田川の本流と支流(西に水窪川、北に谷端川=小石川)がつくる谷間が高台をごちゃごちゃと分断し入り乱れたややこしい地形なのだが、大塚窪町は高台の尾根筋にあたる春日通り以北、小石川の谷へ向かう斜面に位置しており(谷の最低部である小石川沿いは氷川下町となっている)、その町域はあくまで斜面で、とりたてて窪というのはいささか釈然としない気もする。前述の窪町小学校などは春日通り沿いだから、むしろ高台にあるくらいだ。
なお小石川は礫川、氷川という別名があるほか、板橋区・豊島区方面では谷端川と呼ばれた。これもまたややこしい話なので、詳細は本田創編著『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』あたりを参考に。
(2)氷川下町会

すでにちょっと書いたように、氷川下町は大塚窪町の北側、小石川沿いに位置する。現町名では千石2・3丁目、大塚3・4丁目のそれぞれ一部となっている長い町だ。
ここは明治11年の小石川区発足当時はまだ北豊島郡小石川村であったらしい。明治17年の地図)を見ると、このころは今の共同印刷のあたりまで川沿いだけが小石川村となっている一方で、巣鴨の街道沿いが小石川区に含まれている。明治22年に市町村制が施行された際に、川沿いは小石川村から東京市小石川区に編入され、一方巣鴨は北豊島郡巣鴨町の一部ととなったのだ。で、この編入エリアが明治24年に白山御殿町および氷川下町となったというわけだ。
町名は、町域北側の高台に位置する氷川神社(大正期に簸川神社と改称し現在に至る、読みは同じ)からとったものだろう。なお簸川神社じたいは林町にある。
町域内に特に目立つものはないが、昔は都電護国寺線に氷川下町電停があったので、年配の人にはそこそこ馴染みがある地名らしい。あ、そういえば太田胃散の本社があった。
大塚窪町町会、氷川下町会
町会シリーズの続き。今回は2町会しかないから楽だ。
本題に入る前に、いつもの3点セットを↓に。
・特集の序章
・防災地図 ※リンク先PDF by文京区
・昭和地図 by日文研
(1)大塚窪町町会


大塚窪町は、茗荷谷駅の春日通り挟んで北側、今日の教育の森公園やら筑波大学附属やら窪町小学校があるあたり。現町名では大塚3丁目と小石川5丁目にまたがっている。
この界隈は神田川の本流と支流(西に水窪川、北に谷端川=小石川)がつくる谷間が高台をごちゃごちゃと分断し入り乱れたややこしい地形なのだが、大塚窪町は高台の尾根筋にあたる春日通り以北、小石川の谷へ向かう斜面に位置しており(谷の最低部である小石川沿いは氷川下町となっている)、その町域はあくまで斜面で、とりたてて窪というのはいささか釈然としない気もする。前述の窪町小学校などは春日通り沿いだから、むしろ高台にあるくらいだ。
なお小石川は礫川、氷川という別名があるほか、板橋区・豊島区方面では谷端川と呼ばれた。これもまたややこしい話なので、詳細は本田創編著『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』あたりを参考に。
(2)氷川下町会



すでにちょっと書いたように、氷川下町は大塚窪町の北側、小石川沿いに位置する。現町名では千石2・3丁目、大塚3・4丁目のそれぞれ一部となっている長い町だ。
ここは明治11年の小石川区発足当時はまだ北豊島郡小石川村であったらしい。明治17年の地図)を見ると、このころは今の共同印刷のあたりまで川沿いだけが小石川村となっている一方で、巣鴨の街道沿いが小石川区に含まれている。明治22年に市町村制が施行された際に、川沿いは小石川村から東京市小石川区に編入され、一方巣鴨は北豊島郡巣鴨町の一部ととなったのだ。で、この編入エリアが明治24年に白山御殿町および氷川下町となったというわけだ。
町名は、町域北側の高台に位置する氷川神社(大正期に簸川神社と改称し現在に至る、読みは同じ)からとったものだろう。なお簸川神社じたいは林町にある。
町域内に特に目立つものはないが、昔は都電護国寺線に氷川下町電停があったので、年配の人にはそこそこ馴染みがある地名らしい。あ、そういえば太田胃散の本社があった。
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