【マンホールナイト7】消火用吸水孔の新事実
私はこれまでに、消火用吸水孔についての記事を3回書いているはずだ。
第1、渋谷区神宮前の旧八千代橋(渋谷川暗渠)にある東京府の消火用吸水孔について。
第2、杉並区と中野区にまたがる和田廣橋(善福寺川開渠上)にある東京市の消火用吸水孔について。
この2本ぶんの内容は、かつて第2回マンホールナイトでとりあげた範疇である。
そして第3が、上記2本の記事を書いた後に判明した事項(および汐留運河の浦島橋にある第3の現存例)についてまとめた「暗渠ブーム便乗・消火用吸水孔の正体を追う!」と題した今夏の記事である。
この3本目の記事を書いたあと、私はマンホールナイト7(2015年11月8日・開催済)でその内容を発表しないかと勧められた。
東京市公報の発見はそれなりに核心に近づいた大きな収穫だと思っていたので、私としても乗り気で引き受けた次第である。
さて、その発表用スライドを作成中、ちょっと他の用事から東京都公文書館のデータベースを検索していた私は、ある気になる資料に出くわした。その名も、
「善福寺川第6号橋新説工事、工事積算書」〔杉並区和田本町~中野区富士見町に至る善福寺川上に架す〕
「同4号橋(以下略)」〔同〕
というもの。
6号橋・4号橋とだけ言われても当然どこのことやら判然としないが、よくみると文書の起稿が昭和13年で、さらに但書きには「杉並区和田本町~中野区富士見町」という記述がある。これはどうも、東京市公報でみた例の「和田廣橋、和田見橋」を指しているらしい。
そこで、世田谷の上野毛にある、玉川高校とやらの旧校舎を再利用した公文書館に行ってきた。幸いこれらの文書を含む簿冊は電子化済みなので、都立中央図書館のマイクロフィルム化した東京市公報を見るよりも閲覧はいくらか楽だった。
問題の資料は、それぞれの橋の建造計画書、資材発注書、事後の決算書や図面などの雑多な書類を一つのファイルにまとめたものだった。200コマ程度あるものを順番に見ていくと、「6号橋」のほうの精算要項と題された帳票にみごと「鋳鉄製 消火用吸水孔」の文字を発見することができた。

数量1個、計画単価116円に対し精算額96円だとある。計画ではこれは228キロあって、116円とはキロあたり50銭に雑費2円を足したものだ、なんてことまで分かってしまった。ついで見ていくと「材料購買決定通知書」なるものも。

これによると決定通知が昭和13年2月7日、納期が3月5日。発注先は神田区司町の業者である。「本品は質純良鋳造完全にしてその質均一かつ緻密なるべし」「本品は表面平滑にして模様鮮明なるべし。場合により削成せしむべし」などとも読み取れる。

極めつけはこれである。図面まで出てきた。

蓋の上端をよくみると蝶番の軸が書かれているのが見える。これを見に行った数日まえ、和田廣橋の蓋は上部に隙間もないし蝶番式ではなさそう、なんて話をしたばかりだったのだが、意外にもちゃんと蝶番が付いていた模様。外からだとあんまりそうは見えないのだが…。
なお「4号橋」のファイルには消火用吸水孔については書かれていなかったので、4号が和田見橋で6号が和田廣橋なのだろうと察せられる。
とにかく、この文書の発見によって、和田廣橋に関しては昭和13年3月竣工の当時から消火用吸水孔をそなえていたことが立証された。個人的には、これだけいろいろな符合や発見が揃ってくるとなれば、橋梁吸管投入孔と消火用吸水孔とが別個に計画され設置されたとは非常に考えにくいのではないか、十中八九同じものと見なして良いのではないかと思っている。八千代橋や浦島橋についても同様の資料が見つかればいいのだが、まだ発見できずにいる(必ず保存されているとも限らない)。
※ ※ ※
こうなってくると気になるのは、実際に使われた形跡があるかどうかである。そこで、記録が多く残っている渋谷八千代橋界隈のものを重点的に、空襲証言集の類をいろいろ読んでみた。結論から言えば、100%の確証は見つからなかったが、1945年5月24~26日のいわゆる山手大空襲(3月10日以降の空襲で焼け残った部分をあらかた焼いたもの)に罹災した渋谷区住民が語る、当時の渋谷川の様子がいろいろわかって興味深かったので紹介してみよう。
一番の重要証言は、青葉町(いまの青山通沿い、こどもの城跡地ちかく)に住んでいた当時20歳の女性のものである。
「まだなじみのない土地、どこへどう逃げたらよいかわかりません。とりあえず美竹町の梨本邸の方へ坂をかけ下り、穏田川の橋を渡ってと思いました。でも橋には消防自動車が立ち往生していて渡れず、裏道へ渡りました。」(船場千恵子:『表参道が燃えた日』 p.140.)
当時渋谷橋はまだ架かっていなかったので、梨本宮邸脇から隠田川へ下った先の橋とは、九分九厘、八千代橋のことと思われる。その夜、確かに八千代橋に消防車が来ていたのだ。消火用吸水孔をちゃんと目論見どおり使っていたかはわからないが、かなり重い証言だということができる。考えてみれば当然のことなのだが、この証言からは、橋の上に消防車が来ると避難経路が塞がれてしまう、という制度設計上の欠陥が見て取れるように思う。なお梨本邸というのは戦後臣籍降下した皇族の梨本宮のことで、そこの護りのために最寄りの八千代橋に吸水孔が設けられた可能性があるのではと思う。近隣のほかの重要施設というと、強いて言えば都電青山車庫が該当するくらいだろう
。
つぎに有名人、渋谷育ちの鉄道作家、宮脇俊三である。この人の家もどうやら八千代橋の直ぐ側だったようだ。戦中には本人は世田谷に移っていたようだが、空襲当時の渋谷川について宮脇は次のように書いている。
「代々木練兵場を目指した人たちは、目的地にはたどりつけなかったが、渋谷川に飛びこんで辛うじて助かった。私の叔母一家も渋谷川に浸って生き残った組であった。火の粉が髪や首すじに降りかかると、互いに水をかけて消し合ったという。渋谷川の水は下水同然のドブ川で、ふだんは臭気のただよう汚い川であった。」(「増補版 時刻表昭和史」 pp.226-7.)
同じく渋谷川に浸かっていたという神宮通住民は、
「方々でもって水道出しっぱなしにするから、水はどんどんふえてくるね。」「とにかく水がふえるんだよ。あらゆるところで放水するんだから。」(丸山友吉・談:『東京大空襲・戦災史』第2巻 p.393.)
と興味深い状況を伝えている。やはり渋谷川に逃げ込んだ穏田住民も
「突然上流の関が破れたのか、急に水量が二〇~三〇センチと増し、身体の流される危険にさらされた。」(粕壁直一:同書 p.491.)
「川の水はヒザ下までだったので、火の粉が防げない。(略)しばらくして、川の水が増えはじめたのに気づき、急いで起きあがり、渋谷寄りの(宮下橋だと思ったが)ほうへ歩きだした。水道管などが破裂して、水が増えたのだろう。みるみるうちに、胸のあたりまで水がきた。」(田中幸子:同書 p.494.)
などと伝えている。どうやら、この夜の渋谷川の水量は当初少なかったのが、遅くなってから増えたらしいのだ。個人的には「上流の関が破れたのか」という文言が気になる。関というのが確かにあったとすれば、それは水位上昇装置でもあったのかもしれない。
消火用吸水孔についていまわかったこと、想像できることは以上である。他所の地区ではドブ川の水で消火に成功した証言もあり、防空用に自然水利を整備しようという発想自体は的外れのものではなかったようだ。しかし、そもそもの水量の乏しさや、先ほどの証言で見た避難経路を塞ぐ問題などを考えると、おおよそ焼け石に水の苦し紛れの施策だったと評価して間違いなさそうだ。
今回もまだ絶対的な確証といえるレヴェルのものは得られていないが、かなりの確率で消火用吸水孔は「戦争遺跡」と呼びうるものではないかと思う。
※ ※ ※
以上が「マンホールナイト7」の発表内容だ。
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マンホールナイト7 発表用スライド
◆参考文献(空襲に関するもののみ)
『東京大空襲・戦災誌
』第2巻 東京空襲を記録する会、1973.
『表参道が燃えた日』増補版 「表参道が燃えた日」編集委員会、2009.
『続 表参道が燃えた日』 「表参道が燃えた日」編集委員会、2011.
大越一二編著『東京大空襲時に於ける消防隊の活躍』 警察消防通信社、1957.
宮脇俊三『増補版 時刻表昭和史
』 角川書店(角川ソフィア文庫)、2015.改定
第1、渋谷区神宮前の旧八千代橋(渋谷川暗渠)にある東京府の消火用吸水孔について。
第2、杉並区と中野区にまたがる和田廣橋(善福寺川開渠上)にある東京市の消火用吸水孔について。
この2本ぶんの内容は、かつて第2回マンホールナイトでとりあげた範疇である。
そして第3が、上記2本の記事を書いた後に判明した事項(および汐留運河の浦島橋にある第3の現存例)についてまとめた「暗渠ブーム便乗・消火用吸水孔の正体を追う!」と題した今夏の記事である。
この3本目の記事を書いたあと、私はマンホールナイト7(2015年11月8日・開催済)でその内容を発表しないかと勧められた。
東京市公報の発見はそれなりに核心に近づいた大きな収穫だと思っていたので、私としても乗り気で引き受けた次第である。
さて、その発表用スライドを作成中、ちょっと他の用事から東京都公文書館のデータベースを検索していた私は、ある気になる資料に出くわした。その名も、
「善福寺川第6号橋新説工事、工事積算書」〔杉並区和田本町~中野区富士見町に至る善福寺川上に架す〕
「同4号橋(以下略)」〔同〕
というもの。
6号橋・4号橋とだけ言われても当然どこのことやら判然としないが、よくみると文書の起稿が昭和13年で、さらに但書きには「杉並区和田本町~中野区富士見町」という記述がある。これはどうも、東京市公報でみた例の「和田廣橋、和田見橋」を指しているらしい。
そこで、世田谷の上野毛にある、玉川高校とやらの旧校舎を再利用した公文書館に行ってきた。幸いこれらの文書を含む簿冊は電子化済みなので、都立中央図書館のマイクロフィルム化した東京市公報を見るよりも閲覧はいくらか楽だった。
問題の資料は、それぞれの橋の建造計画書、資材発注書、事後の決算書や図面などの雑多な書類を一つのファイルにまとめたものだった。200コマ程度あるものを順番に見ていくと、「6号橋」のほうの精算要項と題された帳票にみごと「鋳鉄製 消火用吸水孔」の文字を発見することができた。


数量1個、計画単価116円に対し精算額96円だとある。計画ではこれは228キロあって、116円とはキロあたり50銭に雑費2円を足したものだ、なんてことまで分かってしまった。ついで見ていくと「材料購買決定通知書」なるものも。


これによると決定通知が昭和13年2月7日、納期が3月5日。発注先は神田区司町の業者である。「本品は質純良鋳造完全にしてその質均一かつ緻密なるべし」「本品は表面平滑にして模様鮮明なるべし。場合により削成せしむべし」などとも読み取れる。

極めつけはこれである。図面まで出てきた。

蓋の上端をよくみると蝶番の軸が書かれているのが見える。これを見に行った数日まえ、和田廣橋の蓋は上部に隙間もないし蝶番式ではなさそう、なんて話をしたばかりだったのだが、意外にもちゃんと蝶番が付いていた模様。外からだとあんまりそうは見えないのだが…。
なお「4号橋」のファイルには消火用吸水孔については書かれていなかったので、4号が和田見橋で6号が和田廣橋なのだろうと察せられる。
とにかく、この文書の発見によって、和田廣橋に関しては昭和13年3月竣工の当時から消火用吸水孔をそなえていたことが立証された。個人的には、これだけいろいろな符合や発見が揃ってくるとなれば、橋梁吸管投入孔と消火用吸水孔とが別個に計画され設置されたとは非常に考えにくいのではないか、十中八九同じものと見なして良いのではないかと思っている。八千代橋や浦島橋についても同様の資料が見つかればいいのだが、まだ発見できずにいる(必ず保存されているとも限らない)。
※ ※ ※
こうなってくると気になるのは、実際に使われた形跡があるかどうかである。そこで、記録が多く残っている渋谷八千代橋界隈のものを重点的に、空襲証言集の類をいろいろ読んでみた。結論から言えば、100%の確証は見つからなかったが、1945年5月24~26日のいわゆる山手大空襲(3月10日以降の空襲で焼け残った部分をあらかた焼いたもの)に罹災した渋谷区住民が語る、当時の渋谷川の様子がいろいろわかって興味深かったので紹介してみよう。
一番の重要証言は、青葉町(いまの青山通沿い、こどもの城跡地ちかく)に住んでいた当時20歳の女性のものである。
「まだなじみのない土地、どこへどう逃げたらよいかわかりません。とりあえず美竹町の梨本邸の方へ坂をかけ下り、穏田川の橋を渡ってと思いました。でも橋には消防自動車が立ち往生していて渡れず、裏道へ渡りました。」(船場千恵子:『表参道が燃えた日』 p.140.)
当時渋谷橋はまだ架かっていなかったので、梨本宮邸脇から隠田川へ下った先の橋とは、九分九厘、八千代橋のことと思われる。その夜、確かに八千代橋に消防車が来ていたのだ。消火用吸水孔をちゃんと目論見どおり使っていたかはわからないが、かなり重い証言だということができる。考えてみれば当然のことなのだが、この証言からは、橋の上に消防車が来ると避難経路が塞がれてしまう、という制度設計上の欠陥が見て取れるように思う。なお梨本邸というのは戦後臣籍降下した皇族の梨本宮のことで、そこの護りのために最寄りの八千代橋に吸水孔が設けられた可能性があるのではと思う。近隣のほかの重要施設というと、強いて言えば都電青山車庫が該当するくらいだろう
。
つぎに有名人、渋谷育ちの鉄道作家、宮脇俊三である。この人の家もどうやら八千代橋の直ぐ側だったようだ。戦中には本人は世田谷に移っていたようだが、空襲当時の渋谷川について宮脇は次のように書いている。
「代々木練兵場を目指した人たちは、目的地にはたどりつけなかったが、渋谷川に飛びこんで辛うじて助かった。私の叔母一家も渋谷川に浸って生き残った組であった。火の粉が髪や首すじに降りかかると、互いに水をかけて消し合ったという。渋谷川の水は下水同然のドブ川で、ふだんは臭気のただよう汚い川であった。」(「増補版 時刻表昭和史」 pp.226-7.)
同じく渋谷川に浸かっていたという神宮通住民は、
「方々でもって水道出しっぱなしにするから、水はどんどんふえてくるね。」「とにかく水がふえるんだよ。あらゆるところで放水するんだから。」(丸山友吉・談:『東京大空襲・戦災史』第2巻 p.393.)
と興味深い状況を伝えている。やはり渋谷川に逃げ込んだ穏田住民も
「突然上流の関が破れたのか、急に水量が二〇~三〇センチと増し、身体の流される危険にさらされた。」(粕壁直一:同書 p.491.)
「川の水はヒザ下までだったので、火の粉が防げない。(略)しばらくして、川の水が増えはじめたのに気づき、急いで起きあがり、渋谷寄りの(宮下橋だと思ったが)ほうへ歩きだした。水道管などが破裂して、水が増えたのだろう。みるみるうちに、胸のあたりまで水がきた。」(田中幸子:同書 p.494.)
などと伝えている。どうやら、この夜の渋谷川の水量は当初少なかったのが、遅くなってから増えたらしいのだ。個人的には「上流の関が破れたのか」という文言が気になる。関というのが確かにあったとすれば、それは水位上昇装置でもあったのかもしれない。
消火用吸水孔についていまわかったこと、想像できることは以上である。他所の地区ではドブ川の水で消火に成功した証言もあり、防空用に自然水利を整備しようという発想自体は的外れのものではなかったようだ。しかし、そもそもの水量の乏しさや、先ほどの証言で見た避難経路を塞ぐ問題などを考えると、おおよそ焼け石に水の苦し紛れの施策だったと評価して間違いなさそうだ。
今回もまだ絶対的な確証といえるレヴェルのものは得られていないが、かなりの確率で消火用吸水孔は「戦争遺跡」と呼びうるものではないかと思う。
※ ※ ※
以上が「マンホールナイト7」の発表内容だ。
スライドを公開しておく↓
マンホールナイト7 発表用スライド
◆参考文献(空襲に関するもののみ)
『東京大空襲・戦災誌
『表参道が燃えた日』増補版 「表参道が燃えた日」編集委員会、2009.
『続 表参道が燃えた日』 「表参道が燃えた日」編集委員会、2011.
大越一二編著『東京大空襲時に於ける消防隊の活躍』 警察消防通信社、1957.
宮脇俊三『増補版 時刻表昭和史
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