骨董マンホール入門(2)
骨董マンホール入門(1)の続き。
[5]10月11日 11:33 今日の骨董マンホール【巣鴨町】

巣鴨駅からほど近い染井霊園。ある入口のすぐ内側に、珍しい骨董蓋が生息している。
昭和7年に東京市に吸収され豊島区の一部となった「北豊島郡巣鴨町」が設置した下水道蓋である。
巣鴨町は大正時代、とりわけ関東大震災のあと急激に人口が増え、狭い町内に5万人弱が住んだ。
この数字を人口密度に換算すると、今日の豊島区を上回るほどであった。人口が増えると当然排水も増え、下水道整備が求められた。そうして設置された蓋のうちの1枚がこれである。
現在わかっている限り、染井霊園内に2枚、巣鴨図書館近くに1枚(角蓋)、巣鴨某所の私道に1枚の計4枚が、80年の時を経て現役で使われている。
写真三枚目は巣鴨町のマークと思われる。ある漢字をモチーフにしているのがおわかりだろうか。
[6]10月11日 19:25 今夜の骨董マンホール&どら焼き【千駄ヶ谷町】

いまの渋谷区は豊多摩郡渋谷町・千駄ヶ谷町・代々幡町の3町が合併して成立した。昭和7年10月のことである。81年も前のことだ。
これらの町では正規の下水道は建設されなかったようだが、ドブの暗渠化などの改良工事は行われたものらしく、東京府などの紋章入りの蓋がいくつか残されている。
ここに紹介するのは、珍しい千駄ヶ谷町のものと推定されている蓋(写真1)。
(写真2)に見られる無骨な紋章が味わい深い。千の字の上下を図案化された「土木」の文字が取り巻いている。
この蓋はかつて路上観察学会の本にも紹介された事があるはずなので、見聞きした方もいるかもしれない。
地元の商店街に認知されており、保存の動きがあるのが心強い。商店街の夏祭りでこの蓋の柄のどら焼き(センホール焼き)が売られたこともある(写真3)。
[7]10月12日 13:26 今日の骨董マンホール【尾久町】

北豊島郡尾久町の下水道蓋である。
巣鴨や千駄ヶ谷と同じく、尾久町も昭和7年10月に東京市に吸収された自治体の一つ。
今の住所では荒川区西尾久・東尾久と町屋の一部に相当する。
この辺り、道はだいぶ込み入って昔の路地の形を留めてはいるが、舗装や下水道は工事が入って新しい箇所が多くなっている。
そんななか、80年ものの蓋が私有地に現役で残っている。
(写真1)西尾久1丁目の私有地に一枚残っている。付近にもう1枚あるという報告もあるが、そちらは個人的には未見。
(写真2)写真1の蓋から数百メートル離れたところにあった。
探蓋道の名著、林丈二「マンホールのふた 日本篇」にも載っている由緒ある物件。
2011秋にはまだあったのだが、それから半年後にはもうなくなっていた。
骨董マンホール蓋には常に撤去の危険にさらされているのだ!
(写真3)蓋中央部の紋章。尾久町のマークと思われる。「ヲ」が9つで「ヲ9」→「ヲク」→「尾久」というわけ。
なお、西尾久2丁目の遊歩道には、丸蓋がモニュメントとして保存されている。
[8]10月13日 14:25 今日の骨董マンホール【消火用吸水孔】

先日紹介した東京府の紋章とともに「消火用吸水孔」と鋳出されているこの蓋、渋谷原宿あたりを庭としている方なら見たことがあるかもしれない。
この蓋は渋谷区神宮前5丁目、かつて渋谷川に架かっていた橋の上に2枚だけ現存する。
類似のものは、中野と杉並を跨いで架かる和田廣橋に東京市or東京都の紋章入りのが1枚あるだけだ(写真2,3)。
この消火用吸水孔の実態はよく分かっていない。開渠から水を汲むのに橋の上に孔を開ける必要があるのか(適当に水面にホースを放り込むのではいけないのか)、あるいは蓋の下にはなにかポンプ的な設備があるのか等々、機能に関しては疑問が多い。
消防博物館の中の人に聞いても、どうやら(前身を含めて)東京消防庁の設備ではないらしいし、橋に穴を開けるなんてことも普通ないそうだ。
ふつうの消防設備でないとすればこれはいったいなんなのか…?
戦時下の防空対策として特別に誂えられた設備とする説もある。昭和19年の東京都訓令「都防空設備管理規程」には「吸管投入桝」や「橋梁吸管投入孔」の整備を当局に要請する文言がある。
これが件の「消火用吸水孔」のことだとしたら、キャットストリートには人知れず「戦争遺跡」が潜んでいるということになる。
[9]10月14日 00:11 今夜の骨董マンホール【プラハ】

既にチェコ・ブルノの蓋を紹介したが、今回は首都プラハの蓋。
ヴルタヴァ川(モルダウ)に架かるカレル橋を渡って小地区(マラー・ストラナ)に入ってちょっとのところで見つけた。世界遺産「プラハ歴史地区」ど真ん中の骨董蓋だ。
「プラハ市下水」の銘と「1912」の年号が入っている。日本には殆ど無い古さだ。
ところで、チェコ語で下水をkanalizaceという。しかしこの蓋にはkanalisaceとある。この表記揺れにはドイツ語Kanalisationの影響がありそうだ。
当時のチェコはまだハプスブルク帝国の一画で、行政上もドイツの影響はまだまだあった。ましてや先進技術たる下水道建造である。プラハ市もドイツから技師(英国人だが中欧で活躍したW.H.リンドレー)を招聘している。
摩滅は激しいが1909とかろうじて読める蓋もあった。プラハの近代下水道は1896年頃にできているから、探せばその当時の蓋もあるかもしれない。
[5]10月11日 11:33 今日の骨董マンホール【巣鴨町】



巣鴨駅からほど近い染井霊園。ある入口のすぐ内側に、珍しい骨董蓋が生息している。
昭和7年に東京市に吸収され豊島区の一部となった「北豊島郡巣鴨町」が設置した下水道蓋である。
巣鴨町は大正時代、とりわけ関東大震災のあと急激に人口が増え、狭い町内に5万人弱が住んだ。
この数字を人口密度に換算すると、今日の豊島区を上回るほどであった。人口が増えると当然排水も増え、下水道整備が求められた。そうして設置された蓋のうちの1枚がこれである。
現在わかっている限り、染井霊園内に2枚、巣鴨図書館近くに1枚(角蓋)、巣鴨某所の私道に1枚の計4枚が、80年の時を経て現役で使われている。
写真三枚目は巣鴨町のマークと思われる。ある漢字をモチーフにしているのがおわかりだろうか。
[6]10月11日 19:25 今夜の骨董マンホール&どら焼き【千駄ヶ谷町】



いまの渋谷区は豊多摩郡渋谷町・千駄ヶ谷町・代々幡町の3町が合併して成立した。昭和7年10月のことである。81年も前のことだ。
これらの町では正規の下水道は建設されなかったようだが、ドブの暗渠化などの改良工事は行われたものらしく、東京府などの紋章入りの蓋がいくつか残されている。
ここに紹介するのは、珍しい千駄ヶ谷町のものと推定されている蓋(写真1)。
(写真2)に見られる無骨な紋章が味わい深い。千の字の上下を図案化された「土木」の文字が取り巻いている。
この蓋はかつて路上観察学会の本にも紹介された事があるはずなので、見聞きした方もいるかもしれない。
地元の商店街に認知されており、保存の動きがあるのが心強い。商店街の夏祭りでこの蓋の柄のどら焼き(センホール焼き)が売られたこともある(写真3)。
[7]10月12日 13:26 今日の骨董マンホール【尾久町】



北豊島郡尾久町の下水道蓋である。
巣鴨や千駄ヶ谷と同じく、尾久町も昭和7年10月に東京市に吸収された自治体の一つ。
今の住所では荒川区西尾久・東尾久と町屋の一部に相当する。
この辺り、道はだいぶ込み入って昔の路地の形を留めてはいるが、舗装や下水道は工事が入って新しい箇所が多くなっている。
そんななか、80年ものの蓋が私有地に現役で残っている。
(写真1)西尾久1丁目の私有地に一枚残っている。付近にもう1枚あるという報告もあるが、そちらは個人的には未見。
(写真2)写真1の蓋から数百メートル離れたところにあった。
探蓋道の名著、林丈二「マンホールのふた 日本篇」にも載っている由緒ある物件。
2011秋にはまだあったのだが、それから半年後にはもうなくなっていた。
骨董マンホール蓋には常に撤去の危険にさらされているのだ!
(写真3)蓋中央部の紋章。尾久町のマークと思われる。「ヲ」が9つで「ヲ9」→「ヲク」→「尾久」というわけ。
なお、西尾久2丁目の遊歩道には、丸蓋がモニュメントとして保存されている。
[8]10月13日 14:25 今日の骨董マンホール【消火用吸水孔】



先日紹介した東京府の紋章とともに「消火用吸水孔」と鋳出されているこの蓋、渋谷原宿あたりを庭としている方なら見たことがあるかもしれない。
この蓋は渋谷区神宮前5丁目、かつて渋谷川に架かっていた橋の上に2枚だけ現存する。
類似のものは、中野と杉並を跨いで架かる和田廣橋に東京市or東京都の紋章入りのが1枚あるだけだ(写真2,3)。
この消火用吸水孔の実態はよく分かっていない。開渠から水を汲むのに橋の上に孔を開ける必要があるのか(適当に水面にホースを放り込むのではいけないのか)、あるいは蓋の下にはなにかポンプ的な設備があるのか等々、機能に関しては疑問が多い。
消防博物館の中の人に聞いても、どうやら(前身を含めて)東京消防庁の設備ではないらしいし、橋に穴を開けるなんてことも普通ないそうだ。
ふつうの消防設備でないとすればこれはいったいなんなのか…?
戦時下の防空対策として特別に誂えられた設備とする説もある。昭和19年の東京都訓令「都防空設備管理規程」には「吸管投入桝」や「橋梁吸管投入孔」の整備を当局に要請する文言がある。
これが件の「消火用吸水孔」のことだとしたら、キャットストリートには人知れず「戦争遺跡」が潜んでいるということになる。
[9]10月14日 00:11 今夜の骨董マンホール【プラハ】



既にチェコ・ブルノの蓋を紹介したが、今回は首都プラハの蓋。
ヴルタヴァ川(モルダウ)に架かるカレル橋を渡って小地区(マラー・ストラナ)に入ってちょっとのところで見つけた。世界遺産「プラハ歴史地区」ど真ん中の骨董蓋だ。
「プラハ市下水」の銘と「1912」の年号が入っている。日本には殆ど無い古さだ。
ところで、チェコ語で下水をkanalizaceという。しかしこの蓋にはkanalisaceとある。この表記揺れにはドイツ語Kanalisationの影響がありそうだ。
当時のチェコはまだハプスブルク帝国の一画で、行政上もドイツの影響はまだまだあった。ましてや先進技術たる下水道建造である。プラハ市もドイツから技師(英国人だが中欧で活躍したW.H.リンドレー)を招聘している。
摩滅は激しいが1909とかろうじて読める蓋もあった。プラハの近代下水道は1896年頃にできているから、探せばその当時の蓋もあるかもしれない。
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