骨董マンホール入門(4)
骨董マンホール入門(1)および同(2)・同(3)の続き。
[14]10月18日 13:09 今日の骨董マンホール【千川上水】

千川上水と聞いてピンと来る方は武蔵野練馬方面に住んでいる方が多いだろうか。
千川上水は、玉川上水から別れた分水のひとつで、武蔵野市の境橋から分岐して市境を北に進み、今の千川通りに沿って流れ、終端部は板橋駅・滝野川界隈を経て、西巣鴨二丁目の現・千川上水公園に至っていた。
江戸時代は江戸北部の重要寺院や町場を潤し、近代には工業用水にもなった。明治13~41年には千川上水会社によって営まれたが、同社解散後は東京府/都の管轄となり、昭和40年代初めまで大蔵省印刷局滝野川工場や六義園に給水されるなどしていたという。
この蓋は、終端部の滝野川6/7丁目の道に数枚残っている。このあたりが暗渠になったのは昭和3年というから、多分そのころの蓋ということになろう。つまり、東京府が設置したものなのだ。
しかし、わざわざ独自のデザインの蓋を用意するとは府も頑張ったものである。こうした独自蓋があることから、千川上水がどうやら(水道局に吸収などではない)特別に単独で運用されていたことが伺われる。印刷局や六義園といった特殊な配水先を鑑みての措置ではなかったかと思う。
ところで、巣鴨駅近くの路上には(写真3)のような蓋が存在する。デザイン等からして昭和40年前後、千川上水の現役末期に設置されたものらしい。「都北部公園」というのはどうやら当時六義園を管理していた部署であるらしい。
[15]10月18日 23:53 今夜の骨董マンホール【目黒町】

前々回の記事コメントで愛蓋界の先駆者・林丈二氏について触れたが、これはその林氏から情報を頂いて見に行った蓋。
荏原郡目黒町水道の消火栓蓋である。目黒町は大正末に水道を竣工、昭和7年に碑衾町とともに東京市目黒区になるまで拡張工事は続けられた。
一般に消火栓は、中身の点検が頻繁であるため蓋もそれほど残らない傾向にある。よって、公道上では現役の戦前蓋を見つけることは困難だ。この目黒町のものも公道にはない。
ではどこにあるかというと、公園のなかなのだ。下目黒にある林試の森公園である。
ここは名前通りかつて林業試験場があった所。この公園、西半分は品川区小山台であるから目黒の蓋は普通だとない。また目黒町時代に建物がなかった辺りには消火栓蓋もないはずだ……と当たりを付けて探したらうまいこと見つかった。
猫がいる東門を入って園内のメインストリートをまっすぐ150メートルばかり行くと、道の真ん中に設置されていた。
砂をかぶりやすい場所であり、摩耗も激しく町章がよく見えないが、紛れも無い目黒町水道消火栓の蓋であった(わかりにくいが、「火」の字の植に町章が描いてある)。
戦前水道の大きめの蓋が残っている例はそんなにないので貴重な路上文化遺産である。小さめの「仕切弁」などの蓋であれば街中にも数個現存が確認されている。
町章は、(写真3)の現目黒区章とほぼ同じものであるようだ。ちくわぶの断面のような形。
[16]10月20日 11:45 誤植やミスがあるマンホール

「今日/今夜の骨董マンホール」シリーズ番外編。
鋳鉄製マンホールは、ふつう雄型を砂に圧して作った砂型に鉄を流しこんで製造される。
文字やらを鋳込む場合は、地紋の型に適宜文字等をハンコのように組み合わせて型を取るわけである。
この工程で型作りをしくじると、出来上がった製品に誤植などのミスが出現することとなる。
大抵不良品は弾かれるものと思われるが、中には出荷され路上までやってきてしまうものがある。
(写真1)は、正しくは水道管から貯まった空気を抜くための「空気弁」である。しかし2文字目と3文字目が入れ違って「空弁氣」となっている。江戸川橋にて。
なお旧字になっている点はべつにミスではなく、「空氣弁」という蓋は文京区内などで見かける。
(写真2)は、ありふれた下水道の蓋に見えるが、なぜかひとマスが塗りつぶされたようになっている。これはこの一枚しか見たことがない。阿佐ヶ谷にて。
(写真3)は、文字は何も間違っていない。しかし位置がおかしい。「水」は「制」の真上にあるが、「道」は「弁」の真上ではない。奇怪な左右非対称だ。ふつうこの手の蓋だと「道」の位置が正しく、水道の「水」はもう一ます右寄りでなくてはならない。
[17]10月20日 11:55 今日の骨董マンホール【千住町】

南足立郡千住町の蓋である。
千住町はいまの北千住駅付近、二つの川に挟まれた一帯である。
千住町は下水道の設置が郊外町村のうちでも早く、大正10年からはじまっている。例によって千住町は昭和7年に足立区の一部として東京市に吸収されるが、その年まで下水道建設工事は続いていたようだ。
千住町のマンホール蓋は現在4枚ほどが路上に残っているはずである。路上の他には下水道の広報施設に若干数があるほか、珍しいことに個人蔵の物件もある(とある商店が店先から撤去されそうになっている丸蓋を引き取ったもの)。
(写真1&2)のように大小2種類の丸蓋が残っている例は、今日では千住くらいだ。ちょっと前までは王子にも大型丸蓋があったと聞くが今はない。
(写真3)が紋章部分だが、「千」をかたどった図案を丸く3つ並べたもののようだ。
[14]10月18日 13:09 今日の骨董マンホール【千川上水】



千川上水と聞いてピンと来る方は武蔵野練馬方面に住んでいる方が多いだろうか。
千川上水は、玉川上水から別れた分水のひとつで、武蔵野市の境橋から分岐して市境を北に進み、今の千川通りに沿って流れ、終端部は板橋駅・滝野川界隈を経て、西巣鴨二丁目の現・千川上水公園に至っていた。
江戸時代は江戸北部の重要寺院や町場を潤し、近代には工業用水にもなった。明治13~41年には千川上水会社によって営まれたが、同社解散後は東京府/都の管轄となり、昭和40年代初めまで大蔵省印刷局滝野川工場や六義園に給水されるなどしていたという。
この蓋は、終端部の滝野川6/7丁目の道に数枚残っている。このあたりが暗渠になったのは昭和3年というから、多分そのころの蓋ということになろう。つまり、東京府が設置したものなのだ。
しかし、わざわざ独自のデザインの蓋を用意するとは府も頑張ったものである。こうした独自蓋があることから、千川上水がどうやら(水道局に吸収などではない)特別に単独で運用されていたことが伺われる。印刷局や六義園といった特殊な配水先を鑑みての措置ではなかったかと思う。
ところで、巣鴨駅近くの路上には(写真3)のような蓋が存在する。デザイン等からして昭和40年前後、千川上水の現役末期に設置されたものらしい。「都北部公園」というのはどうやら当時六義園を管理していた部署であるらしい。
[15]10月18日 23:53 今夜の骨董マンホール【目黒町】



前々回の記事コメントで愛蓋界の先駆者・林丈二氏について触れたが、これはその林氏から情報を頂いて見に行った蓋。
荏原郡目黒町水道の消火栓蓋である。目黒町は大正末に水道を竣工、昭和7年に碑衾町とともに東京市目黒区になるまで拡張工事は続けられた。
一般に消火栓は、中身の点検が頻繁であるため蓋もそれほど残らない傾向にある。よって、公道上では現役の戦前蓋を見つけることは困難だ。この目黒町のものも公道にはない。
ではどこにあるかというと、公園のなかなのだ。下目黒にある林試の森公園である。
ここは名前通りかつて林業試験場があった所。この公園、西半分は品川区小山台であるから目黒の蓋は普通だとない。また目黒町時代に建物がなかった辺りには消火栓蓋もないはずだ……と当たりを付けて探したらうまいこと見つかった。
猫がいる東門を入って園内のメインストリートをまっすぐ150メートルばかり行くと、道の真ん中に設置されていた。
砂をかぶりやすい場所であり、摩耗も激しく町章がよく見えないが、紛れも無い目黒町水道消火栓の蓋であった(わかりにくいが、「火」の字の植に町章が描いてある)。
戦前水道の大きめの蓋が残っている例はそんなにないので貴重な路上文化遺産である。小さめの「仕切弁」などの蓋であれば街中にも数個現存が確認されている。
町章は、(写真3)の現目黒区章とほぼ同じものであるようだ。ちくわぶの断面のような形。
[16]10月20日 11:45 誤植やミスがあるマンホール



「今日/今夜の骨董マンホール」シリーズ番外編。
鋳鉄製マンホールは、ふつう雄型を砂に圧して作った砂型に鉄を流しこんで製造される。
文字やらを鋳込む場合は、地紋の型に適宜文字等をハンコのように組み合わせて型を取るわけである。
この工程で型作りをしくじると、出来上がった製品に誤植などのミスが出現することとなる。
大抵不良品は弾かれるものと思われるが、中には出荷され路上までやってきてしまうものがある。
(写真1)は、正しくは水道管から貯まった空気を抜くための「空気弁」である。しかし2文字目と3文字目が入れ違って「空弁氣」となっている。江戸川橋にて。
なお旧字になっている点はべつにミスではなく、「空氣弁」という蓋は文京区内などで見かける。
(写真2)は、ありふれた下水道の蓋に見えるが、なぜかひとマスが塗りつぶされたようになっている。これはこの一枚しか見たことがない。阿佐ヶ谷にて。
(写真3)は、文字は何も間違っていない。しかし位置がおかしい。「水」は「制」の真上にあるが、「道」は「弁」の真上ではない。奇怪な左右非対称だ。ふつうこの手の蓋だと「道」の位置が正しく、水道の「水」はもう一ます右寄りでなくてはならない。
[17]10月20日 11:55 今日の骨董マンホール【千住町】



南足立郡千住町の蓋である。
千住町はいまの北千住駅付近、二つの川に挟まれた一帯である。
千住町は下水道の設置が郊外町村のうちでも早く、大正10年からはじまっている。例によって千住町は昭和7年に足立区の一部として東京市に吸収されるが、その年まで下水道建設工事は続いていたようだ。
千住町のマンホール蓋は現在4枚ほどが路上に残っているはずである。路上の他には下水道の広報施設に若干数があるほか、珍しいことに個人蔵の物件もある(とある商店が店先から撤去されそうになっている丸蓋を引き取ったもの)。
(写真1&2)のように大小2種類の丸蓋が残っている例は、今日では千住くらいだ。ちょっと前までは王子にも大型丸蓋があったと聞くが今はない。
(写真3)が紋章部分だが、「千」をかたどった図案を丸く3つ並べたもののようだ。
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